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編集部員のリレー随筆(8)

鎌倉の歴史探索術

制作:みだれ橋


齢も70代近くに達し時間に余裕が取れるようになり、運動も兼ねてしばしば鎌倉の町を歩くようになった。この結果、この歳になって鎌倉のことを何も知らないことに気が付き愕然とし、そこで初めて鎌倉の歴史を学びたくなった。

鎌倉の歴史を学ぶ

わが国に於ける中世史の最高権威者石井進氏の著書(中公バックス 日本の歴史)「鎌倉幕府」を数回読み、初めて鎌倉の歴史入門を学び、中世都市の素晴しさを垣間見ることが出来た。

石井氏が書いた(朝日選書648)「中世の村を歩く」の中で、彼は次のように述べているのが私に鎌倉を益々好きにさせた。即ち「彼にとって鎌倉が最も親しみ深く、歴史的都市の読み方を教えてくれた有難い都市である云々」である。
この様な事から、同書の「中世の都市・鎌倉−歴史の原風景を求めて」に従い、私の拙い経験を織り交ぜて、中世都市鎌倉の歩き方に関し皆さんと一緒に考えたいと思い本稿の筆を取りました。

1.鎌倉に関する歴史文献、地誌を読む

石井氏は「文献や古絵図を読んで」の項に次のように述べているので、この項目に沿って中世都市鎌倉の歩き方の手順を整理してみる。(注:以下アンダーラインの部分は石井氏の著書より引用した文章。)

[@鎌倉に関する歴史文献、地誌をみておくこと。これをやり出せば際限もないが、戦後各地で出版された地方史のなかでも特色あるものとして版を重ねた「鎌倉市史」や、鎌倉幕府関係者が編集したらしい日記体の歴史書「吾妻鏡」までみておけばまず万全である。江戸時代に出た多くの地誌も役に立つ。〕

私は、鎌倉の事を知らずにこのまま過ごしたのではご先祖様に申し訳なく思い、鶴岡八幡宮が主催する「鶴岡文庫」の扉を叩いた。この文庫にて鎌倉幕府が編集した日記体の史書「吾妻鏡」の講座(講師:当時神奈川県歴史博物館部長八幡善信)及び「鎌倉の歴史と伝承」の講座(講師:当時鎌倉国宝館館長三浦勝男)の両講座の受講を始めたのが平成8年(1994)の春であった。

八幡氏の講座は、鎌倉幕府編纂の吾妻鏡の原文(吉川弘文館刊行全4巻)をテキストとして使用し、この難解な中世風の漢文により学ぶ講座である。

三浦氏の講座は「吾妻鏡」を中心に中世の関連文献、例えば京都側から見た鎌倉幕府成立の事情から朝廷との関係などの記録を日記風に書いた九条兼実の「玉葉」及び兼実の弟慈円が書いた「愚管抄」(岩波文庫版あり)など、鎌倉幕府関係の吾妻鏡と異なる京都の朝廷側から書かれている史書との比較。

江戸時代に延宝2年(1374)に鎌倉を歴遊し「鎌倉日記」を残した徳川光圀が、臣下の河井恒久等に命じて編集させた「新編鎌倉志」及び「新編相模国風土記稿」などの「地誌」等を引用し、鎌倉の歴史を立体的に考察して史実の検証を行い、真実の実態に迫る勉強の方法を学んだ。そのとき頂いたプリント資料は、現在も私の貴重な資料として重宝している。

吉川弘文館吾妻鏡 全訳吾妻鏡 新編相模国風土記稿 鎌倉市史

個人的に集めた資料としては「鎌倉市史」及び「貴志正造 全訳吾妻鏡」(新人物往来社発行全6巻)「大日本地誌大系 新編相模国風土記稿」(雄山閣発行全7巻)がある。その他「平家物語」「太平記」等の物語。海道記・東関紀行・十六夜日記等を掲載した「中世日記紀行集」(小学館発行日本古典文学全集)。更に、当時は岩波文庫の「リクエスト復刊」として「吾妻鏡」「義経記」「曽我物語」「愚管抄」「保元物語」「平治物語」など多くの古典がしばしば発売されたので手当たりしだい購入した。最近はインターネットの検索を使用すると「国民文庫」にて「源平盛衰記」「玉葉」「梅松論」「承久記」など多数の古典を読むことが出来る大変に便利な世の中になってきたので、インターネットを利用して検索出来る。

2.地図や古絵図を見る

[A地図や航空写真、古絵図を見ること。歴史を歩くためには地図類は欠かせない。明治初期の地図をみれば、中世鎌倉の姿がよく浮かび上がってくる。江戸時代、鎌倉への観光客の増加に応じて作られた古絵図も貴重である。肝心の中世までさかのぼる絵図がほとんどないのは残念だが、善宝寺領絵図は室町時代の若宮大路・大町大路の一部の姿をつたえている。なお、中世の絵画では「一遍上人聖図」の小袋(巨福呂)坂付近の画面が唯一の貴重な資料である。
さらに、都市がいとなまれた自然環境をしることも重要だ。中世の鎌倉の海岸線などは、ほぼ現在と大差なかったとされているが、滑川の河口などは、江戸時代にもかなり移動しており、これも大事な研究課題である。


歴史を歩くためには、鎌倉を中心とした地図を見ることは必要です。私が特に重宝しているのは、日本で初めて近代技術により測量された、参謀本部陸軍部測量局が明治15年に測量し同16年製版し20年に出版された二万分の一縮尺の「州崎村・雪ノ下村」測量図は、横須賀線が敷設される以前の、江戸時代のままの鎌倉の様子を知ることが出来た貴重な地図である。

「フランス式彩色地図」は地図センターより 同じ時代の地図がネットショッピングにて購入できる。
鎌倉関係は「フランス式彩色地図神奈川県東部地域」(C9)と(C10)の2冊が必要で、1冊:¥3,0592冊 2冊:¥6,118ですが、実はこの地図を取り寄せたところ実用品と云ううより観賞用のような作品であった。(参考のため)

大正8年発行のものとしては、(社)鎌倉同人会発行の鎌倉一万分の一縮尺の地図は、現在にては良く判らなくなってきた明治・大正時代の鎌倉の道路網とか河川の様子が明白となり、更に現在は使用されなくなった町の字名(あざな)が判る地図で、戦前の鎌倉の町の様子を伺うには大変に貴重なものである。この地図は鎌倉の書店にて購入できる。(¥1,800)

その他江戸時代に観光用として多数発行された古絵図が、東京美術社により刊行された復刻版「復元鎌倉古絵図16枚と解説・鎌倉紀行」は大変に貴重な資料である。その他江戸時代の浮世絵画家の北斎為一が描いた「鎌倉・江ノ島・大山新版往来双六」は江戸時代の鎌倉の名所を伝える興味深い資料であった。

江戸時代鎌倉古絵図 明治初期フランス式測量図 戦前の測量図






3.自分だけの地図を作る

[B自分だけの地図を作って見ること。実は鎌倉の旅行案内書は沢山あっても、一歩ふみこんだ、このような目的のための適当な地図はあまり見当たらないのが現状だし、こうした地図を作ること自体が、中世都市鎌倉にいたるためのの作業の第一歩になる。国土地理院の一万分の一地形図なら理想的だが、二万五千分の一の地図でも十分だろう。この地図に中世鎌倉の痕跡を地図上に示し、色分けなどしてみることから、過去への旅は始まる。ここに神社・寺院さらに鎌倉に多い廃寺などもぜひ記入しておきたい。
次に史跡・文化財 広くいえば中世鎌倉の種々の痕跡がみな史跡であり、文化財であるが、ここではまず、国や県・市など地方自治体が現在「史跡・名勝」などとして指定しているものから記入しよう。若宮大路や名越切通しなどの鎌倉七口の切通し、港湾施設の和賀江島、北条常盤邸跡など様々だ。

石井氏が述べているように、鎌倉の旅行案内書は沢山出版されているが、目的に合った地図はなかなか見当たらないのが現状だ。
私は、最初に鎌倉十橋の案内を書き始める為に作成した、「鎌倉の史跡案内道路図」(左図)を作成し、この道路図を原型として鎌倉十橋案内図を作成し、次に「鎌倉十井案内図」及び「鎌倉五名水案内図」と個別に分けて案内図を作成した。

切通の場合は全体の七口の配置図を作成し、個々の切通への案内図は道の説明が複雑になるので別途個々に詳細な案内図を作成してみた。(下図参照)
地図の作成法は、最初は市販のタブレットを用いて地図を写してみたが大変に手間がかかるので、新たに地図作成ソフトを購入し、スキャナと併用して適当な地図を複写して制作するようにしてから作業が容易に行えるようになった.



















4.地名の調査をする

C地名 地名は過去の歴史をさぐる大切なカギである。現在の鎌倉の地名のほとんどは中世以来のものだが、地番改正などで貴重な地名が消えてしまった場合も多い。古くからの通称地名、小地名を大事にして、すべて地図上に記入しておく必要がある。
地名といっても内容は豊富で多彩だが、先ず鎌倉の地形的特色を示す「○○谷(やつ)」という谷の地名に注目しよう。比企ケ谷、葛西谷など、比企氏・葛西氏などの有力武将の名をつけた谷は、彼らの屋敷地だったことを示している。扇ケ谷、犬懸谷、宅間谷などの名が、室町時代、関東官領として威勢を振るった上杉氏の家々の名字である扇ケ谷、犬懸、宅間と一致しているのは、その屋敷地がこれらの谷にあったからだ。中でもっとも有力な山内上杉家の場合、個々の谷よりもさらに広い 「山之内」の地名を家名にしているのは面白い。
鎌倉の市街地の中では材木座や大町・小町など商業地域の名が目立ち、刀鍛冶正宗の屋敷は手工業者の存在を語ってくれる。まことに地名は過去の歴史の宝庫といえよう。


鎌倉には、吾妻鏡にしばしば出てくる地名が今でも沢山使用されている。このように700年以上もの永い間大切に残されてきた由緒ある大切な地名も、戦後の住居表示方式の変更に伴い消滅したものも多いことは真に残念である。
例えば私が住んでいる町の乱橋材木座の地名は、吾妻鏡宝治2年(1248)旧暦6月18日の条に「夜中に乱橋の辺に、一町許以下南に雪が降った、その辺は霜が降ったようだ云々」と当時から地名として呼ばれていた。更に、元禄時代には乱橋村と材木座村の二つの村に分かれ、明治21年(1888)に両村が合併して乱橋材木座村となり、昭和14年(1939)に鎌倉に市制が実施されて鎌倉市乱橋材木座となる。ところが国の法律「住居表示に関する法律」が昭和37年(1962)5月10日に施行され、700年以上も続いたこの「乱橋」の地名が抹殺されてしまったのである。然し、一方市内の自治会の名称に、由緒ある地名が多く残っていることを知り、さすが鎌倉市民と思った。

最近では、総務省が推進する市町村の合併においても、地名の歴史的意義も議論されることなく荒野に町を建設するがごとく陳腐な町名が付けられた例が多く報道されているが、これらの報道を見て唖然としたところである。このように地名には沢山の歴史の重みを有しており地名を変える場合には十分な検討が必要である。

鎌倉には石井氏も指摘しているように貴重な歴史の重みを有する地名が多い。例えば先に述べた吾妻鏡に出てくる地名だけでも、現在に残る地名は60件以上の物が見られる。その主な物は「谷(ヤツ)」や道路や橋の名前や社寺の名称が地名となった物が多い。これらを地図上にプロットして見る事からはじめてみよう。

私の地名調査も平成11年ごろから興味を持って始めた。当時、機会があって鎌倉の国宝館館長貫達人にお会いした際に、鎌倉の地名が次第に失われる問題についてお聞きしたことがある。その時に貫館長は三浦勝男氏が地名問題に熱心であるとの返事を聞いた記憶がある。

当時は郷土史研究の雑誌「鎌倉」に三浦勝男氏がシリーズにて「鎌倉の地名考」を掲載しており、昭和59年9月号に(1)「亀ケ谷について」を掲載されてから、平成8年84号(23)「寺分」までは集めた。最近になり、東京堂より三浦勝補編「鎌倉の地名由来辞典」が出版され、地名問題に挑戦しやすくなった。この本のはしがきに「それにしても、江戸時代から現代に至る記録や地図を紐解いてみると、特に地図類は、年を経るごとに小字名が消去されていて、極めて残念といわざるを得ない・・・」と三浦勝男氏は述べられている。

5.簡単な実施例

一応準備が出来たら調査を実施してみる。ここでは「鎌倉十橋の一・乱橋」を例として調査を実施する。この橋は、鎌倉が新田義貞により攻められたときに、北条軍がこの橋を護りきれずに敗れたことから「乱橋」の名が付いたと伝承されていたが、その様に信用してよいのか、文献調査から始めてみる。
文献調査の結果、鎌倉幕府が滅亡したのが元弘3年(1333)5月22日に対し吾妻鏡の記録は宝治2年(1243)と90年前の記録に乱橋の名が見られるので、この伝承は間違いであることが立証された。然し伝承も大切な資産であるので取扱には十分に注意しておこう。

@(文献調査)
吾妻鏡:宝治二年(1248)六月十八日の条に「 寅の剋(今の午前四時頃)、濫橋の邊、一町許以下南に雪降り、その邊霜のごとし云々。」

新編鎌倉志:「亂橋は、辻町より材木座へ渡り行く石橋なり。鎌倉十橋の内なり。」

鎌倉攬勝考:「今は村名に唱ふ。辻町より材木座へ渡る石橋をいふ。」

新編相模国風土記稿:「亂橋と名ずく、通衛の小流に架せる石橋にて鎌倉十橋の一なり。

石碑:「乱橋又亂橋と作り 一石橋の名あり 橋の南方に連理木ありて名高し 吾妻鏡の宝治二年6月の条に 十八日寅剋 亂橋の邊一町許以南 雪降りその辺霜の如し なとあり 辻町と材木座とを境する細流に架せる逆川橋と共に 鎌倉十橋の一なり。」

鎌倉市史:小町大路の項に「この道は材木座・乱橋を経て大町大路と交叉し、小町を経て鶴岡八幡宮の云々」

鎌倉辞典
:「濫橋」とも書く。材木座向福寺門前より少し海岸よりにある。1メートルばかりの石橋をいう。「吾妻鏡」にもこの名がみえる。新田義貞が鎌倉に攻めいった時、北条氏がこの橋のあたりから乱れ始めたので名づけるともいわれている。

A地図の調査
乱橋付近の地図を年代順に4点選びこれらを比較して見る。、江戸時代の絵図(出版は文化・文政の1800年代、板元は丸屋富蔵、画師は谷金川)・明治初期の2万分の1測量図(明治前期測量2万分1フランス式彩色地図)・大正時代の1万分の1測量図(昭和2年鎌倉同人会発行)・平成8年発行の1万分の1測量図(国土地理院発行)の4枚の地図により調査を実施する。下にサムネイル版を示すので、各写真をクリックすると大きな画で見られるので乱橋付近の町の様子の変化を観察してみる。

江戸の絵図 明治初期の測量図 大正の測量図 平成の測量図

B現地調査を実施する。
これまでの準備が出来たら先ず現地を歩いて調査を実施する。また写真にて現地の様子を記録する。乱橋には碑も傍らに建っているので、この説明文も写真に撮っておくのが良いであろう。
再度文献及び地図を調査し、この結果に基ずき調査メモを作成してみる。この作業を数回実施する内に次第に考え方がまとまるので、先に撮影した写真を選択してホームページ作成を行う。簡単なものはこれでWeb上に掲載できるが、更に印刷した場合に図が切られたり消失しないように図の位置の訂正を行い完成である。
暫く時間をおいてから見直すと色々と問題点が出てくるので微調整を実施して、気に入ったら最終版としてプロバイダーに送り、ページの出来具合を観察し問題があれば再度修正を実施する。鎌倉十橋「乱橋」のページ参照

以上歴史の素人が調べた資料に基ずきホームページ作成までの手順を説明したが、アマチュアはアマチュアでプロではないので色々と問題は残るが、インターネット時代の産物としてご容赦願いたい。

アマチュアの余技に最後まで付き合っていただき有難う御座いました感謝いたしております。皆様のご検討を祈念しております。                                                                     

(制作:みだれ橋)


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