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07)
腰越漁港。INで調べたら、漁船数は92、水揚げ高は166トン、水揚げは1億3千万円ほど。
魚種は引き網でのシラスが54トン、マアジ10トン(98年)などとありましたが、少ないのではと思いました。 |
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08)
小動岬。こゆるぎ岬。「動」をゆるぐと読む地名は、北陸線の駅に「石動」があります。
「いするぎ」と読みますが、
「いしゆるぎ」からきたと思われます。『逆引き広辞苑』で調べましたが、他にはありませんでした。
テトラポットがある辺りでしょうか、太宰治が、銀座のカフェの女給と 入水自殺を図った所は。 09)海岸線に出ました。市内の岸の長さを1.5万分の1の地図で計ったら6.9kmでした。 速く歩けば、1時間と少しです。 |
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10)
下見のとき、地平線までの距離はどのくらいなのかと疑問がわきました。グーグル検索で分かりました。
高校で教わった「ピタゴラスの定理」を使い、地球の半径がわかれば、計算できるのでした。渚に立つ人の目線の高さを
1.6mとすると、目の位置と水平線、そして地球の中心を結べば、大きな直角三角形が形成されるので、地平線までの距離を
Xとすると、半径が6,380kmですから、(6380+0.0016)の二乗=6380の二乗+Xの二乗この式からX=4.5kmとなります。
意外と近いんですね。 |
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11)
海には、サーファーが多く入ってます。台風18号のうねりが押し寄せています。
七里もないのに、何故、「七里ケ浜」か? 九十九里浜、九十九島、八百屋、百貨店も実態とは違ってます。検索で
調べたら、 イ)鎌倉時代の単位でおよそ7里というのがありました。七里ガ浜はおよそ2.4kmなので、1里は約340mと なります。ホントでしょうか。 ロ)『魏志倭人伝』には、「東行して不弥国に至ること百里‥」などとありますが、 このときの1里は約78mと書いたHPもありましたが、真偽のほどは・・・。 12)「七里ケ浜」と「七里ガ浜」は場所が違うのです。「七里ケ浜」は海岸を指し、「七里ガ浜」は町名です。 『かまくら子ども風土記』に書いてあります。 |
13)行合川、行合橋の名の由来は、ご存知かと思いますので割愛します。上記の『‥‥子ども風土
記』のP269にあります。
14)稲村ケ崎駅の標識がありました。駅は戦前からあるからでしょう。
15)新田義貞の稲村ヶ崎攻略で、「‥‥剣投ぜし」と歌われているのは、義貞のパーフォマンスだとの説がありますが、
明治には引潮の時、歩いて渡れたと書いてあるHPがありました。義貞は初め、極楽寺から攻め入ろうとしましたが、
果たせず、稲村ヶ崎に回ったとか。私の家の近くに、「洲崎合戦」碑があります。ここで勝利した義貞軍の一方の寄せ手は
化粧坂から鎌倉に攻め込んだようです。
16)磯の香りがしてきました。磯の香りは海藻と塩から発せられるもののようです。学生時代に行った「山陰・山陽」
一人旅の出雲の日の御崎灯台近くで気がついたのです。
17)市営プールに入る所に石碑があり、1955年の国体では、ここで水泳競技が行われ、両陛下が臨席されたと書いてありま
した。
18)稲瀬川近くにも石碑が立ってます。他所に出掛けた政子が、鎌倉入りするのに日が悪く、この近くで何日か逗留を
強いられたと書いてあります。
19)最近、由比ヶ浜でサクラガイを見つけることはあるでしょうか。あっても少ないでしょう。ここで見つけた
サクラガイの数を調べた方がいらしたのです。森豊さんという方です。「十数年前、森豊がサクラガイを拾って数を
記録するようになった。1日に数個という日もあれば、500拾えた日もあった。平成9年はこれまでで最も多く採取できた年
だった。197(6月)〜2,470(11月)個で計12,251個だった」、と郷土史研究家の清田昌弘さんが、「鎌倉朝日」の
H12年5月2日号に書いていました。
20)滑川河口の手前に着いたのは12時を回っていたので、今日は、ここまでで打ち切りとしました。この先は、
そのうちに歩こうと思います。そして、会員の皆さんに事前に送った、「水源とはどこ?」「左岸はどっち?」
「1級河川、2級河川とは?」「滑川はいくつの名を持つの?」といった答えはその時までとっておきましょう。
私の持ちネタが底をつきますので(笑)。
原稿:亜郁 制作協力:奥山 裏方 だだっこ