―東京市及び神奈川県下の被害概況(4)― 県下の被害(2) 郡部(1) △久良岐郡(現横浜市) 日下村役揚が自火で焼失したほか、郡内に火災はありませんでした。金沢町は被害が大きく、全壊328戸、半壊及び破損473戸。その被害率は全戸数の8割7分強を示し、死者43人を出しました。 △橘樹郡(現横浜市・川崎市) 保土ヶ谷町は全壊1,429戸、半壊1,979戸、死者627人、行方不明者16人を出しました。特に富士瓦斯(ガス)紡績会社保土ヶ谷工揚は全壊と共に従業員450人の死者がありました。 現川崎市のうち旧川崎町は、全壊972戸、半壊1,344戸、死者278人、行方不明者12人を出し、旧大師町は全壊534戸、半壊609戸、死者16人を出しましたが、被害率は比較的軽少でした。 △都筑郡(現横浜市) 津久井郡と共に最も被害が軽微の郡でした。郡の中心にある都田村も全壊79戸、半壊88戸で、その倒壊率は全戸数の約2割にすぎませんでした。 △三浦郡 浦賀町は郡内で最も被害が大きく、焼失131戸、全壊1,169戸、埋没33戸、半壊1,144戸を出しました。田浦町は全壊468戸、埋没15戸、半壊1,315戸。逗子町は4ヶ所で火災が発生しましたが大事に至らず、全焼4戸、全壊988戸、半壊887戸。三崎町は全壊234戸、半壊408戸で、城ヶ島灯台が倒壊しました。港は海底が1.2mないし1.5mほど隆起して船舶の出入に支障をきたし、港の改修が必要となりました。 郡内沿岸には津波が襲来し、その高さは秋谷(あきや)海岸約6m、長井約3m、諸磯(もろいそ)約4.5m、剣崎約6mに達しましたが、被害は軽微でした。 横須賀線はトンネルの崩壊や崖の崩落等のため全線不通となりました。特に田浦〜横須賀間は被害が大きく、大正12年中には開通できませんでした。 △鎌倉郡(現横浜市) 戸塚町は全壊527戸、半壊204戸、倒壊率は全戸数の8割7分にあたり、死者31人を出しました。同駅から西に約330mの所で岡山行き列車が脱線しましたが、転覆を免れたため被害は軽傷者1名出たのみでした。 △高座郡 藤沢町のほか郡内の合計15ヶ所で出火しましたが、何れも大事に至らず消し止められました。藤沢町は全壊1,505戸、半壊1,177戸、死者128人。茅ヶ崎町は全壊2,112戸、半壊1,207戸、死者155名を出しました。また、馬入川鉄橋と国道の馬入橋が落下したため、人々は当分の間渡船で上下しました。 『鎌倉震災誌』(昭和5年 鎌倉町役場)の記載内容から 浪川幹夫 |
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写真1 (『大正十二年 大震災記念写真帖』昭和6年 山田商店) |
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