関東大震災の鎌倉 その27

―東京市及び神奈川県下の被害概況(2)―

横浜市の被害
 震災直後平沼町の鉄道路線から眺めると、焦土の先に青々とした横浜港の海面が青空と見まちがうまでに展開されたといいます。
 当時の同市世帯数は99,840世帯。うち全焼は全世帯の約6割3分の62,608世帯を数え、これに全壊・半壊・破損等を加えると被害世帯は全世帯の9割5分に達しました。
 人口は441,600人で、うち死者21,384人、行方不明者1,951人を出しました。焼失面積は宅地面積16,198,347uのうちの12,892,562uで総面積の約8割を占め、東西約4q、南北6qの広さに及びました。
 市内所在の官公庁舎のうち、横浜地方裁判所・横浜刑務所・横浜税関・神奈川県庁・神奈川県港務部・横浜郵便局・横浜税務署・生糸検査所・横浜市役所・横浜駅・桜木町駅、加賀町・伊勢佐木町・山手本町・横浜水上・寿・戸部各警察署等、また、公共の施設としては横浜正金(しょうきん)銀行・神奈川県農工銀行・横浜商業会議所・開港記念会館・横浜貿易新報社・十全医院・高等工業学校・女子師範学校等もすべて崩壊しました。
 旧居留地の山下町一帯では、建築物の多くは石造またはレンガ造であったため第1震と同時に大半が倒壊しました。屋内にいた人はほとんど避難できず、通行者も倒壊した建物の下敷きになって死傷者が相次ぎました。米英を始め17ヶ国の領事館は倒壊した後に焼失し、オランダ・中国両国の領事やアメリカ領事代理が死亡しました。
 最も多く死者が出たのは南仲通り正金銀行付近や、日の出町崖下、黄金町末吉橋、吉田橋、南太田町天神坂付近等で各200名以上を数え、真金町で144名、梅ヶ枝町東本願寺別院前では約350名が死亡しました。中には坐して合掌した姿の焼死体もあったといいます。


『鎌倉震災誌』(昭和5年 鎌倉町役場)の記載内容から

浪川幹夫


『大正十二年 大震災記念写真帖』昭和6年 山田商店 
写真1 (『大正十二年 大震災記念写真帖』昭和6年 山田商店)


『大正十二年 大震災記念写真帖』昭和6年 山田商店 
写真2 (『大正十二年 大震災記念写真帖』昭和6年 山田商店)

『大正十二年 大震災記念写真帖』昭和6年 山田商店
写真3(『大正十二年 大震災記念写真帖』昭和6年 山田商店)

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