―社寺並びに名所旧跡の被害(3)― 名所旧跡の被害 名勝旧跡も前述した社寺と同様に損害を受けました。ことに屋敷跡や廃寺跡などは地震による変化はほとんどありませんでしたが、災後に荒らされたものも存在しました。 △松並木 下馬から二ノ鳥居までの若宮大路両側の松並木のうち、火災で枯死したものは数百本に達し、残存したものも生育不良で年々枯死するという状況でした。 △段葛 段葛の桜は火災のために西側半面の枝を焼かれましたが、このあたりは道路が広かったため樹幹は焼けず枯死を免れました。また、被災者が歩き回ったため、つつじや土手も崩れて荒廃しました。 △風致保安林 市中から見える山林はいたるところで崩壊して山骨は露出し、松並木の枯死と共に状況はひどいものでした。 △稲村ヶ崎 由比ガ浜に面した霊山から稲村ヶ崎の突端まで断崖が崩壊し、土石は海を埋め、海底の隆起によって岩礁が露出しました。 △飯島 鎌倉時代の築港跡といわれる和賀江嶋は隆起し、海が浅くなって一時は漁船の碇泊に支障を来しました。また、海に迫っていた絶壁は崩落し、山脚の海は干潟となって徒歩が出来るようになりました。 △七切通 極楽寺坂は崖が崩落して交通を止め、荷馬車1台、小児1名、旅人1名が埋没死しました。他の六切通も崖の崩壊と土石の崩落によっていずれも通行が遮断されましたが、大仏坂・仮粧坂・名越坂・亀ヶ谷坂の被害は比較的軽微であったので早くに復旧されました。次いで巨福呂坂・極楽寺坂も修復されましたが、朝比奈切通は復旧が最も遅かったため、この辺はしばらく閑散としていました。 △虚空蔵堂(こくうぞうどう) 坂ノ下星月ノ井の傍の山腹にありましたが、山の崩壊と共に埋没しました。埋没した堂は元禄年間に再建されたものといわれます。 △六地蔵 鎌倉時代の刑場の跡と伝えます。ここの6体の石地蔵は倒壊し火災で修復不能になり、1体を残すのみとなりました。また、芭蕉の「夏草やつはものどもが夢の跡」の一句を刻した碑石も崩壊しましたが、修理されて存置されました。 △伝和田義盛墓 雪ノ下鶴岡八幡宮前にあった伝和田義盛の墳墓は倒壊し、火災によって墓石や玉垣は崩れて痛ましい状況となりました。 △その他 頼朝公の墓のほか、墓碑・石塔の類はほとんど倒壊しました。 『鎌倉震災誌』(昭和5年 鎌倉町役場)の記載内容から 浪川幹夫 |
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写真1 二ノ鳥居周辺の被害状況(絵葉書) |
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写真2 二ノ鳥居周辺の被害状況(鎌倉市中央図書館蔵) |
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