関東大震災の鎌倉 その13

  ―各区の被害状況―


長谷
 戸数553戸。うち全壊161戸、半壊201戸、全焼102戸、半焼2戸、流失30戸、埋没2戸で、死亡者は92人、重傷者は63人の多きに及びました。
〜建物の倒壊〜
 倒壊建物が最も多かった所は県道沿いから甘縄神明社付近までの間と長谷寺・江ノ電長谷駅周辺で、そのうち長谷駅以南の一帯はほとんど倒壊し、被害が少なかったのは、長楽寺山(現鎌倉文学館の裏山)などの山裾と大谷(鎌倉大仏の北谷)方面のみでした。
 大仏前の鎌倉病院は全壊し、患者10人、看護婦3人が圧死し、別荘では三条・近衛両公爵邸、前田・佐々木両侯爵邸、大浦・内藤両子爵邸、内海・池田両男爵邸等が倒壊しています。
〜火災の被害〜
 火災は西方では長谷寺門前より光則寺門前を経て北方へ大仏通り方面に広がり、東方では甘縄神明社前に至って同社前一帯の地域が焦土となりました。この時、明治時代に繁盛した大旅館の三橋旅館が焼失しています。
 当日は津波も襲来したため手が足らず、わずかな人数で用水井戸にポンプを仕かけて放水しましたがすぐに断水したため、諸戸邸(現、長谷子供会館とその周辺一帯にあった財界人諸戸清六〔もろとせいろく〕の別荘)の2つの池や大浦子爵邸の池などを利用し甘縄神明社前の延焼を防ぎました。しかし、夜に入っても火の勢いは弱まらず、倒壊した建物の除去や水量不足などもあって、鎮火まで10時間を要したと伝えます。
〜津波の被害〜
 津波は稲瀬川2筋の流域に浸入して電車の軌道を越え、北方は由比ガ浜駅や県道に達し、西方では海岸の堤防が破壊され、長谷駅より数十メートル奥まで流れ込みました。由比ガ浜駅以南の約20戸の住宅はあとかたもなく流失し、この夏開業したばかりの旅館大正館も破壊されて数名の死者を出し、材木座の中島旅館と共に惨状を呈しました。また、海水浴場の更衣場約30軒と漁船15艘が流失しました。
〜社寺の被害〜
 甘縄神明社は拝殿が倒壊し本殿が小破。高徳院は庫裡が全壊し、鎌倉大仏(国宝銅造阿弥陀如来坐像)は全体が約46cm南(前面)にせり出し、台座の右後ろ側が約9cm、前側が約46cm地中にめり込みました。長谷寺本堂は傾斜し、東南方向の側柱が約30cm沈下し、大観音像(十一面観音菩薩立像)は前に傾き扉上の虹梁(こうりょう)に額を支えられて破壊は免れましたが、庫裡(くり)・大黒堂・阿弥陀堂・念仏堂・書院などは全壊しました。光則寺本堂は91cmほど南方に傾斜し、庫裡は46cmほど南方にせり出しましたが、倒壊は免れました。
(なお、大正13年1月19日にはもう一度強震が発生し、鎌倉大仏は全体が30cmばかり後退しています)
〜その他の被害〜
 長谷寺前の道路は約54mにわたり亀裂を生じ、見越橋から大仏脇までの水路沿いの道路は大半が損壊し、道路が陥没しました。見越橋は落下し、稲瀬川橋は流失しました。県道大仏坂では大仏門前の崖が崩落し、トンネルは反対側の深沢口が崩れましたが、軽微であったため町外との連絡は早くから通じました。
 御輿岳(みこしがたけ)は諸戸邸に面する斜面約1,500坪、小谷口の裏山は約1,000坪が崩壊し、光則寺内で約300坪、桑ヶ谷で約500坪などが崩れて家屋が1戸ずつ埋まっています。
『鎌倉震災誌』(昭和5年 鎌倉町役場)の記載内容から

浪川幹夫



写真1 大正十二年九月一日大震災 鎌倉長谷通りの惨状
写真1 大正十二年九月一日大震災 鎌倉長谷通りの惨状

写真2 長谷寺門前の焼け跡(鎌倉市中央図書館蔵)
写真2 長谷寺門前の焼け跡(鎌倉市中央図書館蔵)

写真3 長谷寺の惨状(鎌倉市中央図書館蔵)
写真3 長谷寺の惨状(鎌倉市中央図書館蔵)


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