関東大震災の鎌倉 その11

  ―各区の被害状況―


乱橋材木座
 戸数607戸のうち、全壊250戸、半壊326戸、焼失1戸、流失30戸で、死亡は59名。
 建物の倒壊は海岸通り一帯が最も激しく、光明寺門前は地震のほか津波のためにほぼ全滅しました。  滑川から浸入した海水は海岸橋周辺の低地から東方の田畑を浸し、川を遡ったものは下馬交差点付近の延命寺橋辺りまで達しました。  光明寺門前では建物の残骸や家財類等が散乱し、土砂も堆積して足の踏み場もない状況で、岩間に死体が遺棄されるなど、 惨状を呈しました。なかでも中島旅館は跡方もなく流失。 同館に宿泊中のひとりは娘と孫を奪い去られ、 その人のみが助かったといいます。 また、津波は地震発生後少し間を置いて襲来したので、 自家に戻ったために溺死したという人もいました。
 海岸通りでは建物がほとんど倒れ、路面は亀裂を生じ、一時水が噴出した所もありました(液状化現象か)。  滑川の河口周辺には伏見宮(ふしみのみや)別邸等多くの別荘があって、その大半が倒壊。  この辺りから東方の材木座通りまでの一帯は軟弱な砂層で、震度が強かったためかほとんどの建物が倒壊しました。  このほか、大町四つ角の南側一帯も被害は大きく、補陀洛寺付近・能蔵寺通り・紅ヶ谷などは軽微でした。
 村社五所神社は裏山の崖が崩れて埋没。 光明寺の本堂・総門・開山堂などは倒壊を免れましたが大破し、 大方丈・経蔵・庫裡等は全壊しました。 その他の社寺では九品寺や実相寺・千手院・向福寺・妙長寺・補陀洛寺等が全壊し、 来迎寺と蓮乗院の本堂は倒壊を免れました。
 小坪トンネルは両入口が崩壊し、飯島道も崖が崩れましたが、ここでは山際の海岸に干潟ができたため逗子側との通行は可能でした。  さらに当時、この辺りでは小坪の魚売りが生き埋めとなり、その遺体は昭和2年6月になって発見されたと伝えます。
『鎌倉震災誌』(昭和5年 鎌倉町役場)の記載内容から

浪川幹夫


写真1 大庭病院(材木座上河原通り)とされる写真 (鎌倉市中央図書館蔵)
写真1 大庭病院(材木座上河原通り)とされる写真 (鎌倉市中央図書館蔵)

写真2 光明寺の本堂(右)と方丈(左) (鎌倉市中央図書館蔵)
写真2 光明寺の本堂(右)と方丈(左) (鎌倉市中央図書館蔵)


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