「三橋旅館」について(3)

三橋旅館に宿泊及び関係した人々

 島本千也氏の『鎌倉別荘物語−明治・大正期のリゾート都市−』によりますと、宿泊した名士として福沢諭吉、原敬、島津忠重、伊藤博文の名があがっています。しかし、これまで宿泊者に関する史料が少なかったので、このほかにどれだけの人々が滞在したかは不明でした。そこで、ここでは『鎌倉別荘物語』を参考にして、これら名士の日記等を典拠とし、新たに得た史料を合わせて年代順に列記しようと思います。

南方熊楠(みなかた くまくす) 植物学者、民俗学者で、人類学にも造詣の深かった南方熊楠(一八六七〜一九四一)が、明治十八年四月十六、十七両日「三橋与八」に宿泊しました。この時の紀行文「江ノ島記行」の十六日の項に見えています。その後十八日には江ノ島に行き「恵比須屋茂八方」に一泊、十九日に帰京しました。

福沢諭吉 年譜によれば、明治二十年九月五日から二子を伴って「三橋与八方」に逗留し、本人は東京鎌倉間を往復しました。九月十四日の福沢一太郎宛書簡や、九月二十一日中上川彦次郎宛書簡によりますと、九月二十三日まで海水浴のために来鎌しています。
 さらに二十一年にも、七月十九日に藤沢停車場経由で来鎌し、やはり三橋旅館に宿泊、この時は八月五日に宿を出て、九鬼隆義という人物の借家に移っています。

前田利嗣(まえだ としつぐ) 明治二十一年八月十六日の『毎日新聞』に、「三ッ橋には旧加州侯・水戸侯其他貴客多し」と記されています。このほか、前田家にのこる日記を見ますと、二十五年七月三十一日には宿主与八等ヘ白銀羽織地などの土産を持参したり、また、四十二年六月三日の皇后行啓に際しては三橋与八に料理を調進させたりと、二十三年の別邸建設以後も、明治時代を通じて関係が保たれていたと思われます。

巖谷小波(いわや さざなみ) 江見水陰(えみ すいいん ) 児童文学者、小説家で俳人の巖谷小波(一八七〇〜一九三三)の日記「庚寅日録〔明治廿三年〕」によりますと、明治二十三年(一八九〇)二十一歳の時、当時共に硯友社の同人であった小説家江見水陰(一八六九〜一九三四)を伴って江の島に遊び、三月十八日三橋旅館に一泊しています。
 なお、余談ですが、このほか彼は明治二十年から昭和八年まで厖大な日記をのこしています。いずれも克明に書かれており、硯友社等の研究史料として注目されています。

原 敬 『原敬日記 第一巻』によれば、原敬は明治二十四年に二回来鎌しています。最初は三月三日から七日まで、病気療養のため海浜院ホテルに逗留しました。三日の記事には当時農商務大臣であった陸奥宗光(一八四四〜一八九七)の家族が三橋旅館に逗留していたと書かれています。
 二度目は五月七日の日記に、病後の保養のため、今度は三橋旅館に投宿したことが書かれています。ところが、十二日に大津事件(ロシア皇太子襲撃事件)の報に接し、陸奥大臣からの要請もあって、十三日に帰京しています。

伊藤博文 彼の宿泊に関する史料は少なく、明治廿五年八月二日の『毎日新聞』の記事に「勅使鎌倉に向ふ 土方宮内大臣には伊藤伯への勅使として昨朝新橋発の汽車にて伯の滞在し居たる鎌倉へ赴きたり然るに伊藤伯には去月三十日鎌倉に来り同夜は三橋方へ一泊翌三十一日午後二時鎌倉を発し午後六時頃小田原なる滄浪閣に帰りたりとのことに付勅使土方大臣には更に之を趁(お)ふて小田原へ向へり」とあります。そして、この時の史料として「明治二十五年七月三十日松方首相が最後の決意を以て辞表を奉呈するや、天皇は翌日公を始め、山県、黒田三元老を召し給ひたるが、公は病気引籠中なりしかば、山県、黒田の両人のみ参内したるに、天皇は後継内閣の組織に就き御下問あり、両人は伊藤の意を確むるまで奉答の御猶予あらせられたき旨を言上して退下した。因て天皇は八月一日土方宮相を小田原に遣はされ、更に召命を下し給うた」(『伊藤博文伝 中巻』昭和十八年春畝公追頌会編)とあるのみです。ところが、『としよりのはなし』によると、二十年頃来鎌して宿泊したといい、さらに韓国皇太子の横須賀行啓に随行し、同所を利用したという証言もあります。しかし、明治二十年に逗留したという根拠はありません。また、四十一年(一九〇八)に韓国皇太子が同地を訪れた記録はありますが(「昭和三年九月 高徳院主要出来事書上」)、この時は八月三日に海路横須賀を訪れ、金沢の伊藤博文別邸に宿泊、翌日帰京していますので(『横浜貿易新報』明治四十一年八月四日、五日)、博文の三橋宿泊の事跡は二十五年七月三十日のみということになるのではないでしょうか。

大橋乙羽(おおはし おとわ) 小説家、紀行文家であった大橋乙羽(一八六九〜一九〇一)が、明治二十五年八月二十七日に茶山子を伴って宿泊しました。三十二年に博文館から刊行された紀行文『千山万水』の「柳の都」にその記事があります。なお、茶山という人物は未詳です。

饗庭篁村(あえば こうそん) 小説家で劇評家、尾崎紅葉と親交があった饗庭篁村(一八五五〜一九二二)が東京朝日新聞社員として同社の江の島大運動会に参加した時、三橋旅館に一泊した記事があります。これは明治三十三年(一九〇〇)三月二十八日から三十日まで、『東京朝日新聞』に三回連載した彼の作品「江島行」に書かれたものです。文中に記された日時から、彼が宿泊したのは同年三月二十一日と思われます。

島津忠重(しまづ ただしげ) 薩摩藩最後の藩主忠義(ただよし)の嫡子で、後の公爵島津忠重(一八八六〜一九六八)は、明治三十三年の夏を三橋旅館で過ごしました。「出京した明治三十一年の夏は鎌倉に避暑した。久光の後を継いだ忠済が夏はいつも東京で朝顔作りで忙しく、鎌倉に行かないために、その別荘を借りて、そこでひと夏過ごした。そしてその秋から次の夏前まで、前述の奈良原邸に過ごした。その次の夏はやはり鎌倉ではあったが、長谷にあった三橋旅館の別館を借りて行った」(『炉辺南国記』昭和五十八年 島津忠重 つかさ書房)。そしてこの年の冬、出来たばかりの長谷の別荘にも滞在しました。

市川左団次 歌人、劇作家で小説家であった吉井勇(一八八六〜一九六〇)が長谷にあった撞球場(今でいうビリヤードのこと)「快々亭」の離座敷に寓居していた時、三橋旅館に滞在中の二代目市川左団次(一八八〇〜一九四〇)が訪ねています。「この快々亭と云ふ家の離座敷は、いろいろの思ひ出のあるところであつて、主人は元先代左団次の弟子で、芸名を蔦何とか云ふ女形で、細君は横浜の関内の芸者上りで、年は取つてはゐても何処か小粋なおかみさんだつた。小杉天外氏の小説のモデルになつたと云ふ娘がゐたが、これは東京の方で名ある実業家の囲ひ者になつてゐるとか云ふことで、私がそこに侘住居をしてゐる間に、二三度訪ねて来たのを覚えてゐる。丁度それは小山内薫氏と市川左団次君とに依つて自由劇場が起され、既に第一回か第二回の公演を終つた後で、私はそのために『河内屋与兵衛』その他の脚本を書いた関係から左団次君とも親しい交りをしてゐたので、先代から馴染の長谷の三橋と云ふ宿屋に泊つてゐた左団次君も、一二度この撞球場の奥の離座敷を、訪ねて来て呉れたことがある。たしか新婚早々のことだつたと思ふが、いつも仲よく夫婦連れだつた」(「わが回想録−旧い友達−」 『吉井勇全集 第七巻 随想 随筆』昭和三十九年 番町書房)。吉井勇は明治三十八年鎌倉に転地療養したと年譜に見え、また、文中の「自由劇場」は四十二年十一月の創設といいます。吉井が快々亭の離れを間借りしていた四十二年を前後する時期に、市川左団次も三橋旅館に逗留したと思われます。
なお、「快々亭」については、明治三十八年の『横浜横須賀 電話番号簿 附特設電話番号簿』に「鎌倉 一〇番 快々亭 福本カネ 相摸国鎌倉町長谷一三六 西洋料理玉突」と記載があります(現長谷2ー10辺り)。

杉孫七郎 光則寺の三橋家墓所の脇に杉孫七郎(一八三五〜一九二〇)の歌碑があります。碑文に「夏のころ三橋翁の墓を弔いて なき人のすかたはみえぬさみたれの 宿谷のおくになくほとゝきす 聴雨」、裏に「大正二年八月 井亀泉刻」と記されています。孫七郎は旧山口藩士で、内蔵頭皇太后宮大夫、東宮職御用掛等を歴任した明治時代の功臣です。聴雨、古鐘、などと号した能書家で、また詩歌を楽しみました。三橋家との関係は伺うことができますが、これ以外に史料がないので詳細は不明です。

浪川幹夫

▲TOP

Copyright (C) Kamakura Citizens Net / Kamakura Green Net 2001 All rights reserved.