加賀百万石の別荘(その2)

鎌倉聴濤山荘之図
鎌倉聴濤山荘之図

最初の大改修

 明治三十二年(1899)二月には、三橋旅館に別邸の建物を払下げ、さらに茶室を設計させるなどかなり大掛かりな改築を行っています。工事は順調に進んだようで、その年の十二月に竣工、三十三年一月十八日から三十一日まで皇太子の行啓があり、四月十七日には親族、宮内官らを招待して改築披露が行われたといいます。この地方では珍しい壮大な和風建築群でした。
 ところがこの壮大な別邸も、四十三年(1910)三月十九日、近所の失火がもとで焼失しました。春先のとくに乾燥した季節で、長谷から山伝いに円覚寺近くまで達する大火であったようです。聴濤山荘の被害は大きく、本館は全焼、わずかに土蔵と小使住まいの建物だけが難を逃れたにすぎませんでした。
 しかし再建は早く、十一月には建築工事も本格化しました。この建物も史料から推察すると、やはり和風の建物であったといい、翌年には竣工したようです。

別邸全景   別邸全景
「聴濤山荘十勝」より 別邸全景(明治42年)

明治期の行啓の記録

 皇室の前田別邸への行啓は明治二十五年の英照皇太后からはじまり、明治時代を通じて日光の別邸を含め、史料にあるだけでも十一回にわたっています。これを年代順に列記すると次のとおりです。

〇二十五年五月三十一日 英照皇太后行啓。

〇同   八月一日〜二十三日 皇太子行啓。

〇三十年九月十一日 皇太子行啓。

〇同  九月十六日 皇太子行啓。

〇三十一年二月二十四日〜四月二十五日 常宮(つねのみや・明治天皇第六皇女)・周宮(かねのみや・同第七皇女)内親王行啓。

〇三十二年二月二十六日 常宮・周宮内親王行啓。

〇同   八月 皇太子日光別邸に行啓。

〇三十三年一月十八日〜三十一日 皇太子行啓。

〇同   三月三日 有栖川宮威仁(たけひと)親王・同妃(前田慶寧・よしやす・四女)行啓。

〇同   三月八日〜十四日 葉山御用邸より皇太子行啓。

〇四十二年六月三日 皇后行啓。

 この様に大火で類焼する前年まで続けられました。とくに皇太子の行啓は多く、日光を含め六回行われています。
 また、二十八年八月十一、十二、二十一日のベルツの『日記』には、当時十六歳の皇太子を診察した記録があります(のち、ベルツは三十五年に侍医に就任)。事実皇太子は、三十年以降も葉山御用邸のほか前田別邸に数回、時には長期にわたって滞在したようです。若年の頃から体調が思わしくなかったといい、天皇として即位ののちも、大正十年(1921)には裕仁親王(昭和天皇)を摂政として自らは退き、葉山御用邸で静養しております。このあたりからしても、皇太子の行啓は臣下に対するお成りというよりは、むしろ保養が目的であったことがうかがえます。

浪川幹夫

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