加賀百万石の別荘(その1)

はじめに…前田家の事など

 前田家は藩祖利家(としいえ)以来、加賀、能登、越中三国を容した百二十万石の大大名であり、旧幕時代その中心的な地位にあったのが加賀藩の前田本家でした。そして、近代前田家の基礎を築いたのは、最後の藩主慶寧(よしやす)の嫡子(ちゃくし)で十五代当主の利嗣(としつぐ・1858〜1900)です。彼は明治四年(1871)の岩倉遣外使節に勅令第一号の留学生として参加し、欧米諸国を見聞しました。

 しかし、当時政治の中心は薩長出身者に握られていて表立った活躍の場はありませんでしたが、それでも本郷邸(現在赤門がある所)の一部を東京医学校(現東京大学医学部)建設用地に提供するなど、我が国の欧化政策に尽力しました。また、富国強兵政策の一環として北海道に前田村を建設、北海道開拓を推進させるかたわら、日光、鎌倉に別邸を所有するなど前田家発展の基礎を固めました。

 なお、利嗣が建設した別邸は、利為(としなり・1885〜1942)利建(としたつ・1908〜1989)にわたって使用されました。

鎌倉に別邸をもった理由

 旧幕府が締結した不平等条約の改正について欧米諸国と交渉するため、明治四年岩倉具視(ともみ)を特命全権大使、木戸孝允(たかよし)、大久保利通(としみち)を副使とした、いわゆる岩倉遣外使節が派遣されることになり、利嗣は家に仕える者を従えて同行しました。

 岩倉遣外使節の一行は翌年七月、英国の海浜保養地ブライトンを訪れました。利嗣が一行と行動を共にしたかはわかりませんが、少なくとも滞英中に、保養地の実態についての知識を得たのではないかと思われます。

 そして、二十三年(1890)彼は日光と鎌倉に別荘を持つことになりますが、鎌倉を選定したもう一つの理由として、ドイツ人のお雇い医学者ベルツ(1849〜1913)の影響もあったようです。ベルツは九年六月に来日して東京医学校で教えました。ベルツの『日記』によれば、六月二十六日に本郷の前田屋敷の中に住まいをあてがわれています。そして十二年(1879)七月六日はじめて鎌倉に遊び、七里ヶ浜を賞賛しております。

 さらに彼は、旧佐賀藩主の鍋島直大(なべしまなおひろ・1846〜1921)とも交際がありました。直大と利嗣は岩倉遣外使節に参加した間柄であり、のちに直大の長女が利嗣に嫁いでいるので親交が深かったようです。利嗣はベルツとも直接あるいは間接的に接触があり、鎌倉が保養地として別荘を建設するのに最も適していることは早くから知っていたのでしょう。

鎌倉別邸の建設の経緯

 利嗣が初めて鎌倉に来遊したのは明治二十一年(1888)八月のことです。十六日の『毎日新聞』は、「海浜院(海浜院ホテル)には岩崎弥之助(やのすけ)氏(日本郵船会社創立者)家族其他貴紳豪商、外国人にはボアソナード氏及独逸(ドイツ)公使家族其外数十名、三ッ橋には旧加州侯・水戸侯其他貴客多し」と、「旧加州侯(利嗣のこと)」が三橋旅館に逗留したことを伝えています。さらにこの記事には、当時稲村ヶ崎の頂上付近を削り落して建設した井上馨(かおる)の壮大な別荘をはじめとして、「華族・官吏・外国人等数名」の別荘があったことや、肺病、胃病、リューマチス等「殆(ほと)んど海水浴の適せざる病症は之(これ)なき程の勢なるのみならず」と、鎌倉の海岸の利点や、当時の盛況ぶり、海水浴の効果などが書かれています。

 二十年七月には東海道線の保土ヶ谷・戸塚・藤沢の各駅が開業しました。これより先、十八年三月二十五日の『東京横浜毎日新聞』に、三橋旅館が由比ヶ浜に直営の海水浴場を持ったことを知らせた「海水浴御馳走広告」が出されています。
 利嗣は、十八年には三橋旅館のことを知り、二十一年八月ここに滞在していたとすれば、当時保養地として発展しつつあった鎌倉にこの時すでに注目していたと考えられます。そして、自らの滞欧経験や、ベルツからの影響もあり、当時進行中の横須賀線敷設の計画や、これに伴ったと思える別荘建設ブームもあって、三橋旅館滞在期間中に彼による実地検分がなされのかも知れません。

鎌倉別邸の創建

imgaug1.jpg
招鶴洞の前で 明治25,6年頃(前田家蔵)
 
 
imgaug1.jpg
『相摸国鎌倉名所及江之嶋全図』より
前田別邸(明治29年)(鎌倉市中央図書館蔵)

 明治二十二年六月に横須賀線が開通しました。利嗣は横須賀線開通を待って別邸を建設したのでしょうか。前田家の史料によれば、二十三年十月三十一日に竣工したといいます。彼の伝記『淳正公家伝』には、「聴濤山荘(ちょうとうさんそう)」と命名したと書かれています。

 ところで、創建された当時の建物の規模などについては、二十九年に刊行された「相摸国鎌倉名所及江之嶋全図」という銅版絵図の中に見ることができます。

 この中で別邸は、絵図の「長楽寺谷(ちょうらくじがやつ)」と記された部分にあります。ここを拡大すると洞門と二棟の和風建築物があり、その内の敷地のほぼ中央に位置する曲り屋風の一棟が、別の一棟より大規模であることがうかがえます。おそらくこの二棟の建物のうち、南に正面を向けた大きい建物が本館で、もう一つの、洞門近くの建物が家職(いえしょく)、家従(かじゅう)ら旧家臣、使用人の居宅ではないかと想像できます。しかし、明治二十五年には英照皇太后(孝明天皇皇后)と皇太子(大正天皇)を迎えることとなり、その準備として「鎌倉御別邸」の手入れをさせた記録があるので、少なくとも最低一回は若干の手直しがあったようです。この点からすると、絵図は建築当初の建物構成を表わしたものとは言いにくいですが、初期の姿は示していると思われます。

 ところで、鎌倉には明治二十年代初期に政財界の要人や、華族、官吏、外国人らの別荘が少しづつ建ち始めていました。しかし旧大名家の別荘は当時まだ記録に現われておらず、二十三年に建設した前田家は、旧大名家としてはとくに早い方であったようです。

 当時は、皇室でも保養所建設の動きがあったようです。とくに皇太子は若い頃病にかかり、転地療養の必要があったといいます。また、二十五年英照皇太后が病後の静養のため、葉山の一色にあった有栖川宮(ありすがわのみや)別邸に滞在したという記録も残っています。皇室の前田別邸への行啓もあり、御用邸の建設が急がれたと思われます。さらにこの裏付けとして、宮内省から御用邸建設のため聴濤山荘を参考にしたい旨が伝えられた史料があります。

 実際、葉山に御用邸が建てられたのは二十七年(1894)一月のことです。聴濤山荘への行啓の事跡についてはあとでお話ししますが、明治時代を通じて数度あったことは記録に残っています。利嗣は単に前田家の保養のみならず、別邸に仮の御用邸としての機能をもたせようとしたのではないでしょうか。

浪川幹夫

▲TOP

Copyright (C) Kamakura Citizens Net / Kamakura Green Net 2001 All rights reserved.