鎌倉の御用邸について

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大正末期の鎌倉御用邸 (写真提供 金子晋氏)

 明治時代の鎌倉は案外と知られていないことが多いかと思われます。鎌倉は中世の都として繁栄し、さらに江戸時代には伊勢・大山・江の島参りの旅すがら、観光地としても発展したことはあまりにも有名であろうと思われます。しかし、もう1つの歴史的な要素としまして、保養地として発展した明治大正の姿も、最近の研究成果から少しづつわかって参りました。

 そこで、まず手始めに、今はもう失われてしまった明治大正時代の鎌倉を代表する鎌倉御用邸についてお話ししたいと思います。

 鎌倉御用邸は現在の御成小学校と鎌倉市役所が建つ所にあって、総面積18,000余坪(約60,000平方メートル )を所有しました。

 明治9年(1876)6月7日来日して東京医学校で教鞭を執ったドイツ人医学者ベルツ(1849〜1913)の『日記』などに見るように、明治時代初期から中期にかけて、彼らによって鎌倉が保養地として紹介され、20年代から京浜方面の貴紳豪商が来遊しました。この頃には別荘も建ち始め、保養地、観光地としての鎌倉が形成されたことは既に知られています。明治26年(1893)11月28日のベルツの『日記』によれば「午後二時、橋本綱常氏より対診を依頼され、天皇陛下の御生母二位の局の胃疾を診察す」(浜辺正彦訳 昭和14年 岩波書店) とあります。英照皇太后はこの頃から病気がちであったと思え、その前年の1月、病後の静養のため一色にあった有栖川宮別邸に約1ヶ月間滞在しました。26年2月には、皇太子(大正天皇)も同宮別邸に1ヶ月以上いたといいます。また、鎌倉でも皇室の前田侯爵別邸(現鎌倉文学館)等への行啓もあり、さらに御用邸建設の動きも早くからあったことは、前田家に遺る史料に見ることができます。実際、葉山に御用邸が建ったのは同27年(1894)1月22日のことです。ことに前田別邸には、皇太子をはじめとする皇室からの行啓が25年から32年2月までに6回あり、毛利公爵別邸には皇太后の転地保養として、26年4月12日に行啓がありました。

 葉山御用邸のほかにも、近隣の海浜に皇室専用の保養地が必要になったのでしょう。『明治天皇紀』は「鎌倉御用邸建設工事録」「祭祀録」を参照して、鎌倉御用邸は富美宮と泰宮の避寒地として32年麻布第二御料地の殿舎を移築して造られた、としています。同年4月11日に地鎮祭が行われ、9月竣工。工事期間は短く、幼い皇女の保養のため急遽建てられたものであることが伺えます。さらに、帝室林野局が昭和14年に発行した『帝室林野局五十年史』に次のことが書かれています。
 「五五 鎌倉御料地 本地は神奈川県鎌倉郡鎌倉町に在つて、富美宮、泰宮両殿下御避寒御用邸敷として、明治三十二年林友幸所有地四町余を買収し、介在国有地五百五坪を神奈川県より移管を受け内匠寮に引継ぎ、後接続民有地を更に買収し、総面積一万八千余坪を有したが、大正十二年関東大震災に罹災し、翌十三年千坪弱を柳原愛子へ下賜せられ、昭和六年御用邸廃止となり、内一万五千五百余坪を不要存地と決定し一部を道路敷として除却し、其の大部を鎌倉町に払下手続済で、現在の要存地面積は千七百十坪余である」と、関東大震災が原因で廃止されました。また、御用邸建設予定地に、前述の林友幸の所有地があったことは誠に興味深いことと思われます(林友幸の別荘?)。なお、柳原愛子(やなぎはらなるこ・1855〜1943)とは大正天皇の生母です。和歌に優れ、明治天皇の没後も柳原二位局と呼ばれて皇族に準ずる扱いを受けました。宮中の歌会始に三回選歌されたといいます。

 皇族の鎌倉御用邸への行啓は、『横浜貿易新聞』によると33年(1900)1月8日から4月26日までの、富美宮、泰宮の避寒が最初であったと思われます。ついで34年6月29日に皇太子の行啓があるなど、たびたび避暑避寒が行われました。

浪川幹夫

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