古き鎌倉再見 その7

明治初年頃の八幡宮前の風景

 今回紹介する写真は明治初年頃の鶴岡八幡宮前の風景です。2点ともほぼ同時期の撮影と推定されます。

写真:江の島、砂浜より望む
写真1 “Kamakura(鎌倉)”『ザ・ファー・イースト』1874年
(明治7年)2月号(横浜開港資料館蔵)


 『鎌倉近代史資料第5集 鎌倉の社寺門前』(平成3年 鎌倉市中央図書館)の明治8年「鶴岡八幡宮附近民家(その1)」と対比すると、画面左奥のかやぶき屋根の建物が「角正旅館」と推測されます。「角正旅館」についてはあとでお話ししますが、この号の記事には、「横浜から遠足に行く人は誰でも集合地とする八幡宮の正面。中央は鳥居、左は茶屋。この地の歴史的重要性については前ワシントン駐在日本公使森有礼氏の寄稿に詳しい」(金井圓訳 『THE FAR EAST.』《復刻版》 昭和40年 雄松堂書店)と書かれています。森有礼(もりありのり・1847〜1889)の寄稿についてはわかりませんが、写真は、当時の外国向け観光ガイド的な意味あいを持っていたと思われます。
 ところで、話は前後しますが、『ザ・ファー・イースト』1870年6月13日号(旧暦明治3年5月15日)には「鎌倉の街は今はほとんど、広く長い街路が中心で、その中央が盛り上がっていて、寺院へいく参道となっている―約半マイルの距離。この距離の間、家は完全に続いているのではなく、主として小さな商店やまわりの肥えた土地を耕作している農家によって占められている。段葛はその道中ずっと、一連のトリイ―神道寺院の入口につねにある門―をもっている。道路にまたがっているトリイは木造で、まったく低い。しかし、境内の入口にあるトリイは美しい造りで、幅約20フィートの花崗岩の石材をささえる2本の花崗岩の柱でできている。段葛は、そのはずれのところで、江ノ島・大仏へゆく道と分かれるが、盛り上がりのない小道は―なお、トリイがとびとびにまたがり、いくつかは、大きい―海辺までもう半マイル続いている」と書かれており(『よこれき双書 第4巻 外人記者のみた横浜―“ファー・イースト”にひろう』大野利兵衛訳編 昭和59年 横浜歴史研究普及会)、三ノ鳥居が花崗岩製であったこと、若干の宿屋のほかには農家と小さな商店しかない町であったことが伺えます。段葛も、下の下馬(現在の下馬の交差点あたり)まであったことが裏付けられます。

写真:腰越、江の島付近の砂浜
写真2 明治初年の段葛(横浜開港資料館蔵「明治初期ニ於ケル横浜及其附近」アルバムより)


 段葛の両側の土手は低く、樹木は何も植えられていません。中には蓆(むしろ)が敷かれ、さらに両側の土手の横には、杭のようなものの上に戸板などを載せて収穫物が干してあります。若宮大路の両側の家の前には溝があり、それぞれ橋が掛かっています。中には溝の上に乗っている家もあります。古老の話によれば、当時の八幡前の通りはわらぶき屋根の家ばかりでその間には畑もあり、大路には麦や綿などが干してあるさびしい所であったことが伝えられています。また、画面中央の立札は、写真のタイトルがわりに立てられたと思えるもので、「KAMAKURA 鎌倉鶴岡」と書かれています。  なおこの写真は、鈴木真一(1835〜1919)の撮影と推定されています。彼はわが国の写真の祖とされる下岡蓮杖(しもおかれんじょう)の弟子で、横浜の弁天通、後には真砂町に写真館を構えました。

浪川幹夫

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