古き鎌倉再見 その4

神仏分離真っただ中の鶴岡八幡宮

 幕末まで八幡宮は「鶴岡八幡宮寺」という神仏習合の寺院でした。当所以外の神社や仏閣も神仏分離の影響は少なからず受けていますが、ここでは割愛します。ことに八幡宮の場合は写真や史料が残っており、短い期間のうちに仏教的な要素がことごとく取り壊されたことがこれらの資料から伺えます。
 『鶴岡八幡宮年表』(平成8年 鶴岡八幡宮)によれば、慶応4年(1868)3月14日に五箇条の御誓文が発せられ、明治と改元した9月には、それまでの鶴岡八幡宮寺の供僧(ぐそう)や小別当(べっとう)ら僧籍にあった人々が一旦俗人となったのち、新たに神職となって総神主や大禰宜(ねぎ)と称しました。総神主は12人もいたそうです。明治3年(1870)5月には、先に発せられた慶応4年3月13日の布告にもとづいて境内の仏堂を取り除き、仁王門の跡には鳥居を建立し、それらの事を神奈川県へ届出ています。神仏分離の政策は直接仏教攻撃を意図したものではありませんでしたが、一連のこの行為は平田派国学の影響を受けた人々によって行われたとか、あるいは県からたびたび催促があったため、やむを得ずなされたとか言われております(年月日は旧暦)。
 今回と次回は、この頃創刊した英字週刊誌『ザ・ファー・イースト』の貼込み写真の中から、神仏分離の様子を伝える資料を選んで紹介します。

写真:鎌倉の社寺
写真1 “TEMPLES AT KAMAKURA.(鎌倉の社寺)”
『ザ・ファー・イースト』1870年6月13日号
(横浜美術館蔵)


 前回紹介したベアトの写真(写真4)とほぼ同時期に撮影されたものです。イギリス人のブラックが発行した『ザ・ファー・イースト』1870年6月13日号(旧暦明治3年5月15日)の「鎌倉の寺院」の項には、八幡宮の鐘が打ち壊されたという記事があり、このほかさらに、大塔の屋根の頂にあった青銅の相輪がなくなっていることを僧侶に尋ねたところ、「現在の政府が実権を握って以来、とりはずされたのだ」というようなことも述べられています(『よこれき双書 第4巻 外人記者のみた横浜―“ファー・イースト”にひろう』大野利兵衛訳編 昭和59年 横浜歴史研究普及会)。写真を見ると、大塔の屋根の頂きがまさに相輪を抜き取った直後であることを示すように、3本の短い突起がむなしく天を見つめているようにも思えます。大塔が解体される前段階の姿かも知れません。
写真:鎌倉の一群の社寺
写真2 “GROUP OF TEMPLES, KAMAKURA, JAPAN.(鎌倉の一群の社寺)”
『ザ・ファー・イースト』1870年6月13日号
(横浜美術館蔵)


 右下は若宮、左下は神楽殿です。神楽殿のかやぶき屋根が前回のベアトの写真(写真2)と比べて荒れているようなのが少し気になります。石階の右下は石の手水鉢、これは寛文7年(1667)に建ったといい、その右の小さい祠は高良明神という祠でしたが、明治初期の写真には両方とも見えません。なお若宮は、現在は県指定重要文化財であり、写真はその最も古い姿を伝えています。
写真:『ザ・ファー・イースト』
写真3 “TEMPLES AT KAMAKURA.”『ザ・ファー・イースト』
1870年8月16日号(旧暦明治3年7月20日)
(横浜美術館蔵)


 画面中央奥が鐘楼で、左が大塔。写真1と同じ時に撮影されたと思われます。鐘楼の中にはすでに鐘はなく、さらにこの2棟は神仏分離で失われました。この号が発行された時にはもうなかったかも知れません。

註:文中の年月日には、あえて「(旧暦)」と表示しました。わが国の暦を西暦と合わせたは明治5年12月3日のことで、その日を6年(1873)1月1日とするまでずれていたからです。


浪川幹夫

▲TOP

Copyright (C) Kamakura Citizens Net / Kamakura Green Net 2001 All rights reserved.