古き鎌倉再見 その3

ベアトと鎌倉

 ここでは、ベアトによって写された神仏分離以前の鶴岡八幡宮の姿を紹介します。
 前回お話ししたように、彼は元治元年(1864)11月20・21日に来鎌しています。このシリーズの彼の写真はこの時の撮影のほかに、次号でお話しする、神仏分離が実行された明治3年(1870)5月までに再度来鎌して撮ったものもあるようです。また、江戸時代の鶴岡八幡宮の古図を見ますと、写された建物の名称を知ることができます。
 ところでベアトは、当時の鎌倉の様子について写真アルバムの解説の中で、「それ以来、1333年(元弘3年)、新田義貞によって滅ぼされるまで、鎌倉は広大な、人口の多い、そして誰に聞いても、美しい首都であった。現在では、寺社と伝統を除けば、過去の栄光の面影もないつまらない村に過ぎない」と記しています(『F.ベアト幕末日本写真集』昭和62年 横浜開港資料館)。

写真:神仏分離以前の鶴岡八幡宮本殿近景
写真1 神仏分離以前の鶴岡八幡宮本殿近景。ベアト撮影。
“KAMAKURA…TEMPLE OF HATCHIMAN”
(横浜開港資料館蔵)


 元治元年(1864)ころの撮影と思われます。  石階上の楼門や本宮は、文政4年(1821)に焼けて同11年(1828)に再建されたものです(『続徳川実紀』等)。楼門の向うに見える建物は六角堂で、中に六角の井戸があったといいます。楼門の前には三対の青銅製燈籠と一対の石燈籠があり、六角堂や燈籠群は、あとでお話しする神仏分離の嵐によって取り壊されました。

 回廊や六角堂に“はしご”がかかり、楼門の横の用水桶の上に番手桶が積んであるのは、いずれも防火用です。

写真:神仏分離以前の鶴岡八幡宮の下拝殿と経蔵
写真2 神仏分離以前の鶴岡八幡宮の下拝殿と経蔵。ベアト撮影。
“KAMAKURA”あるいは“Temple of Kamakura”
(横浜開港資料館蔵)


 これも前図と同じ時に撮影されたと思える写真です。神楽殿の位置は現在と大差ありませんが、正面に石段があること、周囲が格子(こうし)で囲んであること等々、様式は大分違います。

 左側の建物は経蔵です。この中には一切経(いっさいきょう)が大量に納められていました。この一切経は『鎌倉攬勝考(らんしょうこう)』などによれば、中国・宋板で実朝寄進と伝えるものです。経蔵は神仏分離で解体されましたが、経巻はどのような経路を経てか東京の浅草寺の所有となり、全てではありませんが現存しています。

 なおこの一切経は宋板であるといわれていましたが、のちの研究によって元板であることが明らかになりました。その中には若干の異版と墨書本が混入しており、異版のうち40巻は明らかにわが国の作で、元弘3年(1333)刊のものもあるということです。

写真:神仏分離以前の鶴岡八幡宮大塔と薬師堂
写真3 鶴岡八幡宮大塔.。ベアト撮影。
(横浜開港資料館蔵)



 次の写真4の大塔と異なり、屋根の最上部に青銅製の相輪(そうりん)が天高くそびえています。この2枚の写真は同じ時期に撮影されたとするのは疑問であり、撮影時期が違うのは確かです。ベアトは神仏分離以前と、その最中に少なくとも2度の撮影を行ったのかも知れません。実際、仏教的な建物などが取払われたのは明治3年になってからですが(後述)、これらの資料から、八幡宮ではこの頃すでに神仏分離政策の影響があったことが伺えます。

 また、前回紹介した『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の絵に描かれた大塔の屋根にも相輪があり、写真はこの絵と共に、幕末期の八幡宮の変貌する過程を如実に伝える史料として貴重です。

写真:鶴岡八幡宮大塔
写真4 神仏分離以前の鶴岡八幡宮大塔と薬師堂。ベアト撮影。
“THE TEMPLE OF HATCHIMAN… KAMAKURA”あるいは“Pagoda or Temple at Kamakura”
(横浜開港資料館蔵)


 薬師堂は現在の白幡社が建つ所にあり、いずれも神仏分離で解体されました。


浪川幹夫

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