古き鎌倉再見 その23

―鶴岡八幡宮周辺(明治時代の師範学校)―

 

 写真1は画面右上に「明治三十年」と記された神奈川県尋常師範学校の全景です。左に見える大きなくぐり門には「運動会」と書かれています。そして、その右側の二階建ての大きな建物は師範学校の本校舎と思われます。

 写真2は明治時代末頃の同校の景。建物群を写真1とは違う角度からながめたもの。手前は寄宿舎などの建物かも知れません。また、写真の下には「鎌倉鶴ヶ岡大臣山の東麓、三浦平六兵衛尉義村の舘址なり。 図中の建物は神奈川県師範学校にして実に三浦舘址の一部なり」と記されています。三浦義村(?〜1239)は頼朝挙兵以来の御家人で、北条氏に忠誠を示して信任を得、嘉禄元年(1225)には評定衆に選ばれました。 しかし、ここに館を構えたかどうかは不明です。

 神奈川県尋常師範学校(のちの横浜国立大学教育学部・現在の教育人間科学部)は、明治25年3月10日横浜老松町野毛山から鎌倉に新校舎が落成するとともに移転し、同13日に開校しました。 この時、附属小学校はとりあえず東鎌倉村の鎌倉小学校を代用したといいます。  ところで、同校は大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受けており(昭和元年〔1926〕に復興)、これらの写真は明治時代の同校の姿を伝える数少ない資料として貴重です。
 開校式(移転式)の様子については、榎本申之という人物が書いた「師範学校の移転式」という一文によれば、 「神奈川県師範学校は同県下鎌倉郡鎌倉雪ノ下に校舎を新築し、去月(明治二十五年三月十三日)を以て移転式を挙行したり。 今その景況を聞くに、当日の来賓には文部大臣代理大嶋秘書官、西村視学官、久保田譲氏、神奈川県知事代理田沼書記官、学務課員、水嶋県会議長を始め、議員、豪商等が四十名(中略)、  此の間始終の奏楽及び唱歌あり、また立食の饗応、終って生徒の運動会あり(以下略)」とあり(『神奈川県師範学校創立六十年誌』昭10.10.17)、盛大な式典が催されたことがうかがえます。
 当時の師範学校の敷地は約6000坪。 また、新築された建物の種類とその坪数は、木造二階建の本校教場が168坪、同じく平家建の教場が46坪5合、 雨天体操場(木造平家建)70坪、倉庫(煉瓦建二階家)が12坪、寄宿舎(木造二階建)が210坪、同(平家建)が4坪で、このほかに寄宿舎食堂、病室及診療所などが造られたとあります(前掲書)。
 なお、この頃の鎌倉は、東鎌倉村・西鎌倉村の二村に別れていましたが、明治25年(1892)5月21日には両村が鎌倉東西組合村を結成して、 組合会が開設され(『鎌倉議会史(記述編)』昭和四十四年□鎌倉市議会)、のちの鎌倉町(明治27年に組合村が廃止され、東西鎌倉村が合併したことによって成立)へと発展する過渡期でもありました。
 

写真:「明治三十年」とある神奈川県師範学校(運動会風景)
写真1 「明治三十年」とある神奈川県師範学校(運動会風景)
 

写真:明治末頃の神奈川県師範学校「三浦舘址」
写真2 明治末頃の神奈川県師範学校
「三浦舘址」『日本史蹟(天,月之巻)』熊田葦城 大正二年修訂再版 昭文堂 より


浪川幹夫

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