古き鎌倉再見 その20

―「海浜院」について(由比ヶ浜)―

 由比ヶ浜辺りも長谷と共に早くから開けたようで、明治20年には海浜サナトリュウムのはしりともいうべき「海浜院」が海岸沿いの松林の中に創設されました。
 写真1は、海浜院の全景です。明治20年8月1日は、その10年ほど前から横浜の富商たちの間で計画されていた海浜院が開院する予定の日でした。同年7月29日付『東京横浜毎日新聞』には、「八月一日ヨリ開院ス、本院ニ来リ養生セントスルモノハ左ノ規則ヲ一覧シ」とあります。しかし、同紙8月7日の記事には「鎌倉の海浜院は本月1日に開院式を予定したが、工事未了の箇所があってそのメドが立たない。しかし、申込者が増加しているので式典はしばらく後回しにして、とりあえず同日に仮開業したという。8月2日当地に行った人によれば、海浜院の家屋の構造は西洋木造で室数三十余、室内の装飾のみならず食堂や寝台、日用諸器具まですべて西洋風であったと。(中略)当日は開業の二日目であるが宿泊客は部屋数総体の約半数ほどまでに達し、そのうちには渡辺議官・岩崎参事官・陸軍士官学校教師カミイルジロー氏・本野旧横浜税関長等が見られた。ところで、海浜院は長与衛生局長(専斎)の発意で、華族や横浜の紳商茂木・中山両氏の賛助を得て設立されたもので、院長は近藤良薫、幹事を茂木惣兵衛・中山安次郎の二氏に任す」とあり、仮営業が開始された時点ではかなりの活況を呈したようで、宿泊客の中に政官界の重鎮や「お雇い」外国人の名などが見受けられます。
ところで海浜院は、当初は皇族や華族、政財界の重鎮らの間に海浜における保養、療養の思想を浸透させることなどを目的として造られた保養施設(サナトリュウム)でした。岩倉遣外使節の一員として欧米の医学を学び、のちに医事や保健衛生に関する諸制度の基礎を創った長与専斎(1838〜1902)を中心にして創設されましたが長続きせず、早くにホテルに代わっています(「海浜院」あるいは「海浜院ホテル」。このあたりの経緯については、相原典夫「鎌倉海浜ホテル考」『鎌倉』第34号 昭和55年 鎌倉文化研究会 に詳しい)。ホテルになった海浜院は明治22年5月14日の『毎日新聞』によると、年々国の内外で有名となって日増しに繁昌し、ことに主な客層は外国人であったということが書かれ、「座敷料ハ一日分上等一円、中等八十銭、下等六十銭、食料は朝廿五銭、昼・夕各五十銭なり」とあります。この記事からは当時の料金を知ることが出来るとともに、同院の客層が邦人よりも外国人が多かったことなどもうかがえます(帝国ホテルが開業した明治23年当時の1泊の料金は2円50銭。明治24年の巡査の初任給が8円である〔『値段年表 明治・大正・昭和 週間朝日編』昭和63年 朝日新聞社〕より)。
 その後も何度か経営者が替わり、「海浜ホテル」と改称。明治39年(1906)には、イギリス人の建築家で「我が国建築界の父」と呼ばれたコンドル(1852〜1920)の設計によって建替えられました(『ジョサイア・コンドル建築図面集』昭和56年 中央公論美術出版)。
 なお写真1は海浜院最初の建物で、『各地名所』「明治廿六年各地遊覧之節撮影之」と記された阿部家所蔵のアルバムに収められたもの。撮影年代が書かれている資料としては珍しく、非常に貴重な資料と言えるでしょう。そして、写真2の絵葉書はコンドルの設計による海浜ホテルの建物です。コンドルの海浜ホテルは関東大震災後も存続しましたが、昭和20年12月失火のため焼失し、以後再建されることはありませんでした。
写真:明治26年頃の「海浜院」(『各地名所』アルバムより 阿部家正道氏蔵)
写真1 明治26年頃の「海浜院」(『各地名所』アルバムより 阿部家正道氏蔵)

写真:絵葉書「鎌倉海浜ホテル 海岸ヨリ望ム The Kaihin Hotel at Kamakura」(年代不明・個人蔵)
写真2 絵葉書「鎌倉海浜ホテル 海岸ヨリ望ム The Kaihin Hotel at Kamakura」(年代不明・個人蔵)


浪川幹夫

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