古き鎌倉再見 その15

―長谷・坂ノ下の辺り5―

外国人が見た大仏

 鎌倉大仏を最初に見たヨーロッパ人は、切支丹(キリシタン)の管区長フランシスコ・パエズと同行者のロドリゲス神父でしょう。彼らが慶長12年(1607)に鎌倉に滞在した記事に、「就中(なかんずく)、青銅の巨大なる偶像が田圃の中に放棄され、野鳥の休場となつてゐるのに目をとめた」とあります(『日本切支丹宗門史』第9章 レオン・バジエス 吉田小五郎訳 昭和13年 岩波書店)。祐天上人による修理以前、大仏とその周辺が荒れ果てていたことがよくわかります。そして、慶長18年(1613)9月1日には、英国人船長のジョン・セーリスが訪れ、「我々はこの像の上に旅客がつけたたくさんの文字や印を見た。私の従者のある者はそれをまねて、同じように自分のを書いた」と、像身に落書きがあったことを記しています(「セーリス日本渡航記」ジョン・セーリス 村川堅固訳『新異国叢書6』 昭和45年 雄松堂書店)。
 このように、江戸時代初期には外国人の見聞録が見られましたが、鎖国の世になるとそのような記録は見られません。
 しかし、幕末になると欧米人が鎌倉を訪れるようになり、日記や紀行文など多くの見聞録をのこしています。たとえば、安政7年(万延元年・1860)英国の植物学者で旅行家のロバート・フォーチュン(1813?1880)が来鎌した時、高徳院の境内がよく整備され荘厳されていた様子を著書『江戸と北京(1863)』に、「私たちは庭園の中に入り、石畳の上を進んだ。両側にいろいろの美しい樹木や灌木が列んでいたが、その多くはたわめられて奇妙な形になっていた。庭の一番高いところに、私たちが見に来た巨大な青銅の像が立っていた。というよりは坐っていた」と書いています(「鎌倉紀行」ロバート・フォーチュン 岡田章雄訳 『外国人の見た日本』第2巻 昭和36年 筑摩書房)。この文章から、境内には石畳がまっすぐに延びた参道があってその両脇には樹木が植えられ、良く手入れがなされていたことがうかがえます。
 現在、境内の池の奥には安永9年(1780)4月造立の碑が建っていますが、銘文には「奉寄進境内敷石」とあって、大仏の前方に敷き並べてある石畳がこの時の造営かと推定できます。
 これらのほか写真入り英字紙『ザ・ファー・イースト』1870年5月30日号には、胎内に「十二分に与えられた特権をこのように乱用した」外国人の名前らしき落書きが多かったことを示す記事もあり(『よこれき双書 第4巻 外人記者のみた横浜―"ファー・イースト"にひろう』大野利兵衛訳編 昭和59年 横浜歴史研究普及会)、幕末・明治初年の大仏に関する外国人の見聞記等については枚挙にいとまがありません。

写真:明治時代中期頃の大仏(『旅の家土産 第9号』明治31年10月15日印刷)
明治時代中期頃の大仏(『旅の家土産 第9号』明治31年10月15日印刷)


浪川幹夫

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