「鎌倉文士村」ができたわけ(9)

まとめ―「鎌倉文士村」ができたわけ

 以上のように鎌倉には、大正8年前後から関東大震災までの『白樺』派同人によるものと、昭和初期以降の文士の集住がありました。
後者には、夏目漱石の友人菅虎雄とその子忠雄や、芥川龍之介、、吉井勇の存在を媒介として居住した久米正雄、大佛次郎、さらに雑誌『文学界』同人の関係等により、小林秀雄、林房雄、深田久弥、川端康成らがいました。ことに菅父子や小林米珂、芥川龍之介、、小泉策太郎らは、いわゆる「鎌倉文士村」形成の初期段階で重要な役割を果たしたと思われます。

 そして、関東大震災後の文学界の活発な動きと円本ブームなどによって、文学者の生活の向上や新進作家の勃興がありました。さらに鎌倉においても、文学者や知識人、芸術家等の居住環境が整備され、結果的に昭和13年の鎌倉ペンクラブ「会員名簿」や「会報」に見る、50名近くの文士の居住が可能になったと考えられます。

 このシリーズを長々と続けてまいりまして、現象面から見た文士村ができた経緯のことばかりをお話しして、最後に肝心なことを言わないと皆様からお叱りを受けるかも知れません。芥川のように、物価が高いなどとグチを言いながらも横須賀に通うのに便がよかったこと、また、当地が東京に近くて風光明美であったことなどの諸要因もあって、結果的に多くの文学者が集まったとするのが、むしろ自然かも知れません。このほかにもまだ理由はあろうかと思われますが、それはともかくこのシリーズでは、いわゆる「鎌倉文士村」の形成過程について、今まで知り得た史料を基に考察しました。しかし、通説的なものをそのまま引用した部分もあるので、若干調査不足であることは否めません。今後さらなる鎌倉文士と近代史の詳細な調査の必要性を痛感しつつ、御寛怒乞う次第です。

〇『文芸年鑑』の記録とは、現存する大正12年〜15年、昭和4年〜12年、14年、15年、18年、23年以降所収の「文士録」である。ここに記された住所は、おおむねその年か、前年迄の史料と思われる。


写真:鎌倉市中遠望
鎌倉市中遠望

浪川幹夫

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