「鎌倉文士村」ができたわけ(8)

「鎌倉ペンクラブ」と文士たち

 鎌倉では、昭和初期になると文学者や知識人等の居住者が増えたようです。それを象徴するかのように、11年11月25日午後6時から鎌倉ペンクラブの発会式が長谷の南浦園で行われました(「現代鎌倉の記録」藤波湘吉 雑誌旧『鎌倉』第参巻・第壱号 昭和12年1月)。そして、その後に当時町議であった久米正雄が会長となりました。彼は大佛次郎(1897〜1973)や里見らの強力な応援を受けて、7年(1932)9月10日鎌倉町会議員にトップ当選しています。当選後は15年まで2期務めました(『鎌倉議会史』)。
 ところで当地では、昭和初期に多様な会合がつくられました。まず、8年1月には大佛や評論家の大森義太郎(1898〜1940)らが中心になって「鎌倉アマチュア写友会」なるものが出来、5月に第1回写真展が鶴岡八幡宮参拝者休憩所(現、幼稚園)で催されました。
 このほか「鎌ニュー会」、「汽車会」、「鎌倉同人会」などの集まりや、別荘族を相手にした「湘南クラブ(信用購買利用組合湘南倶楽部)」もあり、当時、鎌倉にはいくつかの諸会合があったようです。
 そして久米、大佛の発案で、9年(1934)7月15日には『海の謝肉祭』(第1回鎌倉カーニバル)が開催されました(『東京朝日新聞』同年7月11日、16日、等)。この時の祭神は浅草の人形師が作った龍神で、能衣裳を着た一丈二尺の巨像であったといいます。なお、戦前に行われた「鎌倉カーニバル」は、13年(1938)7月24日に開催されたのが最後です。この時の主神は、トーチカに陣取った金太郎でした。戦争の激化と共に中止されましたが、22年(1947)8月3日に復活しました。戦後のカーニバルは37年まで続きましたが、交通事情や時流の変化などにより、この年を最後に以後行われなくなりました。

 ところで9年から始まったカーニバルは、開催に漕ぎ着けたその裏に、鎌倉在住の文士連の協力があったようです。この頃には居住する人も増え、それを象徴するかのように、11年には「鎌倉ペンクラブ」が発足しました。
 13年(1938)の「鎌倉ペンクラブ会報」を見ますと、山田珠樹、今日出海、菅忠雄の消息や、新入会者、退会者の事など文士の鎌倉内外での動きが書かれており、彼らの動向を知ることができます。そして同年の「会員名簿」には、学者等文筆活動に携わった人も含んだ総計42人の名が記載され、とくに1年間だけ居住した三好達治や、かつて扇ガ谷の、亀ヶ谷切通し脇にあった鉱泉旅館「米新亭」に滞在した大岡昇平、12年から鎌倉にお住いの漫画家、横山隆一氏の名が見えています。そして、ペンクラブに加わらない西田幾太郎、星野立子、高浜虚子、長田幹彦、中村光夫、山川均を合わせると少なくとも50名近くの文学者や知識人が鎌倉に居住、滞在したことが伺えます。

 では、「鎌倉ペンクラブ」が形成された背景は、どのようなものでしょうか。
 まず、大正15年10月から改造社の『現代日本文学全集』の予約開始によって始まったとされる、所謂「円本ブーム」が沸き起こりました。これによって読者の層が拡大され、文壇人の生活の向上や、新興文学者の進出があったようです。また、好景気の中で、久米正雄や正宗白鳥、林不忘、与謝野寛、晶子、佐藤春夫らに代表されるような、出版社や新聞社による派遣という形での、文学者の洋行が一つのブームになったといいます。
 その一方で、鎌倉では世帯や人口が増加しました。加えて、横須賀線の本数増や、複線化(大正13年)、東京〜横須賀間の電化(14年)、北鎌倉駅の本駅開設(昭和5年)等もあって、京浜方面や横須賀軍港への通勤を可能にし、海軍軍人や、俗にいう別荘族などの定住化が促進されたといいます(『横須賀線百年』平成2年 神奈川新聞社)。そして、昭和4年には鎌倉山分譲地の株主への土地分譲が開始されました。これに伴う大船〜江ノ島間の「自動車道」も完成し、翌年には大船〜江ノ島間、鎌倉山〜長谷間の「乗合自動車」が開業したといい(『鎌倉山正史』米山尚志 平成7年)、これらのほか、昭和11年には大船町に松竹の「大船撮影所」が竣工するなど(『松竹七十年史』昭和39年 松竹)、鎌倉町とその周辺地域は、戸数や人口の増加のみならず、社会、文化両面で発展し、文学者や知識人、芸術家等の居住環境が次第に整えられていきました。

 久米を始めとする文士たちは、このように別荘地・保養地として当時有名な町であった鎌倉に居を求めました。ところで、鎌倉は昭和初期になると、首都圏のベットタウンとして移り変わりはじめていました。このような時代の流れの中にあって久米は、町議として地方政治の表舞台に登場し町の発展に寄与しました。さらに大佛や里見らと共に、鎌倉文士の中核となって「鎌倉ペンクラブ」を主宰し、「鎌倉カーニバル」を開催するなど活動し、当地の近代史に華やかな一ページをのこしました。
 その後も、彼ら文学者の転出入はあったと思われます。現存する15年、16年、26年、27年、32年の「会員名簿」では、40余人〜70人前後の名があって少しずつその数を増しています。以上のことから、いわゆる「鎌倉文士村」と呼ばれた独特の町の姿は、10年から12、3年頃に形づくられたと考えられましょう。


写真:鎌倉カーニバル(戦後)
鎌倉カーニバル(戦後)。若宮大路で

写真:鎌倉山ロッヂ絵葉書
鎌倉山ロッヂ絵葉書(昭和5、6年頃)。鎌倉山開発の象徴的な建物であった。

浪川幹夫

▲TOP

Copyright (C) Kamakura Citizens Net / Kamakura Green Net 2001 All rights reserved.