「鎌倉文士村」ができたわけ(7)

雑誌『文学界』と鎌倉

 『文学界』は、昭和8年(1932)10月、武田麟太郎、林房雄、小林秀雄、川端康成、深田久弥、広津和郎、宇野浩二らで出発した文芸雑誌です。後、、横光利一らが加わりました。9年に一時休刊しましたが、同年文圃堂から復刊し、11年から文藝春秋社が発行所となりました。途中広津、里見などが脱会したものの、この年には阿部知二、村山知義、島木健作、舟橋聖一ほかが加わり、さらに13年には中村光夫、井伏鱒二、今日出海、真船豊、堀辰雄、三好達治らが、また15年(1940)には中山義秀、火野葦平らが参加しました。なお、同誌の創立については「小林秀雄と『文学界』」(林房雄 『新訂小林秀雄全集 別巻2』昭和61年 新潮社)に詳記されています。
 この文章からは、雑誌発行の構想を持ち出したのが武田で、林の交遊関係から同人が形成されたことが書かれています。また、日中戦争当時の暗雲たちこめた中で、彼らが文学と自由を守るべく活動した姿が偲ばれます。そして、創刊の時期には小林、川端、深田が既に鎌倉に住んでいました。

小林秀雄、林房雄、深田久弥と川端康成
 小林秀雄(1902〜1983・評論家)は、大正15年(1926)長谷大仏前に一時住みました。そして昭和6年から「鎌倉町佐介通二〇八(現鎌倉市由比ガ浜一丁目12番辺り)」ほかに再度居住したといい、『文芸年鑑』の記録によれば、58年に没した時の居住地は鎌倉市雪ノ下一丁目13番でした。

 林房雄(1903〜1975・小説家)は、昭和7年(1932)10月頃には鎌倉の名越に住んでいました(『川端康成全集補巻二』昭和59年 新潮社)。この後は『文芸年鑑』の記録などによりますと、8年には「鎌倉町長谷原ノ台一四一七」、9年、10年、静岡県(伊東)、10年10月頃から「鎌倉町浄明寺宅間谷」に居住し、23年頃から50年に没するまで「浄明寺五一四(現浄明寺二丁目8番辺り)」に在ったようです。
 ところで、彼の随筆「文学的回想」の中の「小泉三申翁のこと」の項によりますと、彼が住んだ静岡県伊東の家と「鎌倉町浄明寺宅間谷」の家は、両方とも政治家小泉策太郎(1872〜1937・号三申・さんしん)の別荘と持ち家であったといいます(『林房雄著作集2.』昭和44年 翼書院)。小泉は大正・昭和前期の政党政治家で、政界で暗躍し黒幕と目された人物です。昭和4年刊『神奈川県職業別電話名簿』に「小泉策太郎 雪ノ下六二〇(現雪ノ下四丁目1番)」とあり、前述の「文学的回想」によれば「雪の下大蔵」に大邸宅を所有したという記述もあるので、当地でもかなりの資産家であったようです。林とは7年頃から親交があり、彼の誘いで小林秀雄や深田久弥もこの邸宅を訪れています。

 深田久弥(1903〜1971・小説家・山岳紀行家)は、菅忠雄の紹介で昭和7年9月初めから鎌倉町大塔宮前の借家に住んだといいます。(「文学的半自叙伝−鎌倉仲間」『深田久弥・山の文学全集12』昭和50年 朝日新聞社)。さらに『文芸年鑑』の記録には、13年から15年、18年の住所が「二階堂歌の橋手前」とあります。しかし、これ以降の居住の記録はありません。

 川端康成(1899〜1972・小説家)は、昭和7年11月2日から約20日間、由比ガ浜にあった海浜ホテルに滞在しました。同年11月5日附の川端の葉書や、同月26日附の川端宛林房雄葉書(『川端康成全集補巻二』)によりますと、海浜ホテルでの生活や原稿執筆のために利用したこと、さらに菅忠雄との関係も伺えます。
 その後は10年(1935)6月23日の川端書簡に、「二階堂三二五」の住所があります(前掲書)。この二階堂325は詩人蒲原有明(1876〜1952)の持ち家で、蒲原は震災後静岡県に転居しています。昭和20年になってここに戻り、一時川端と棟を同じくしたといいます(21年9月8日附 久保喬宛書簡・前掲書、等)。このほか別の資料から、浄明寺宅間谷の住所もありましたが、詳細は未詳です。いずれにせよ、川端はのちに長谷に移り住むまで、二階堂325に在ったようです。

 ところで話が変わりますが、昭和の『文学界』が創刊された前年の9月10日、久米正雄が鎌倉町会議員にトップ当選しました。さらに、11年にも再選されているので、この頃鎌倉では久米や大佛、里見ら文士の存在もかなり強くなっていたようです(『鎌倉議会史』)。
 『文学界』創刊時の同人のうち、小林、林、深田、川端の四人については以上のように鎌倉に転入しました。彼等以外の同人や執筆者の動きを見ますと、古くは昭和7年頃に今日出海が、また、12年には島木健作が転入しました。そして13年には三好達治が約1年間のみ居住しています。このほか、中村光夫、中山義秀、真船豊がいますが、彼らは戦争中の16年から20年迄の間に移り住んだといい、『文学界』同人としての関係から鎌倉に居住したことと直接結びつくかは未詳です。


浪川幹夫

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