「鎌倉文士村」ができたわけ(6)

菅虎雄、忠雄父子から鎌倉居住を斡旋された文士たち(4)

久米正雄(1891〜1952・小説家・劇作家))
 久米正雄は文学者としてのみならず、鎌倉町会議員として、あるいは「鎌倉ペンクラブ」会長などとして活躍し、鎌倉の昭和史に名をとどめた忘れてはならない人物です。彼は大正7年(1918)に来鎌し、滞在したと思える記録があります。当時、鎌倉町大町辻にいた芥川龍之介の7月22日の手紙に「久米正雄も二三日中に鎌倉へ来る筈です」、そして7月23日の葉書に「鎌倉小町橋本屋 久米正雄」とあります(『芥川龍之介全集 第10巻』岩波書店)。久米が「橋本屋」にいたことは確かでしょう。また、鎌倉郷土史研究家の故木村彦三郎氏によれば、『現在の鎌倉』の「▲料理店」にみる「同上(鎌倉町雪の下八幡前)小林保五郎」が「橋本屋」であるといい、教育委員会刊の『としよりのはなし』や、小島政二郎の小説『芥川龍之介』には現在のスルガ銀行の辺りにあったと記されています。その後久米は、12年の夏を長谷三橋旅館の前の貸家に滞在、当地で関東大震災に遭遇しました。

 久米が鎌倉に住んだのは14年(1925)のことといい、2月大町蔵屋敷に移っています。さらに、「鎌倉であつた俳句会 北村細々 記」に、「昨年のことだ。四月二十二日の夜明がたから、とてもひどい雨が降り出した。(中略)突然起つた用に集合時間の九時三十分に遅れること一時間で東京駅に駆けつけた。雨は晴れたが、さて一行御出発の後だ。そこの告知板に曰く『十六夜会一行鎌倉へ行く、乗遅れは追つかけて来るべし。徂春、三郎、京村、和、浪雄、義信、』はてな、畑さんはどうしたかな、と思ひ乍ら乗り込まうとした車中を見ると、畑さんが居る。(中略)二人は、どうせそんなことゝ覚悟をして鎌倉に着くと、今日の会場、待心亭へ行く。(中略)やがて鎌倉組の久米さん吉井さんが見え、騒ぎもやんで、句を作り初める。庵主が晴天なればと好意の計画を破つた今朝の雨はにくいが、雨後の新緑も又美しい、庭の芝生に初夏らしい日ざしのあるのもすがすがしい。(中略)句作が終ると又騒ぎ出す。吉井さんを前に今度は歌を作らうと言ひだす。いやそれより句相撲をやらうとなつて、席をかへて始める。何時の間にか日が暮れて庭の面が見えなくなつたと思へば、もう九時だ、汽車の時間を気にしながら慌しく『待心亭』を出て、庵主北川さんや久米さんの見送りを受けて一行は汽車に乗つた。
 一年前のことだ、時の庵主、北川さんは亡くなられた。吉井さんももう鎌倉を引払つて東京へ帰へられたそうな」(旧雑誌『鎌倉』6月号 大正15年)とあります。この記事は同年に二人が居住していたことを裏付けるのみならず、当地で久米が句会に参加するなど、吉井勇やその他の人々との交際を示す貴重な史料といえるでしょう。

 そして昭和3年(1928)11月には欧米漫遊のため一時日本を離れますが、4年11月に帰国し、帰朝後の仮寓を鎌倉塔の辻に定めました。
 『文芸年鑑』の記録ではここは鎌倉町塔の辻二〇六(現鎌倉市由比ガ浜1−12−32辺り)であり、その後7年から二階堂八四一に移り、大正14年以来没するまで当地に居住しました。

 ところで、芥川とは一高以来の友人であり、大正3年(1914)東京帝国大学在学中に芥川のほか山本有三、土屋文明、菊池寛らと第三次『新思潮』を創刊しました。4年には芥川とともに漱石門下に加えられたことはよく知られています。また、8年には、吉井勇、田中純らと雑誌『人間』を創刊しております(11年6月まで)。このうち里見は、明治20年代と大正13年以降鎌倉に居住しており、あるいは久米の鎌倉居住にも影響を与えたのではないかと考えられます。

 さらに前述の芥川と同様、菅虎雄が忠雄を菊池寛や久米に引き合せていたようです(忠雄は大正13年文藝春秋社に入社した)。しかし、久米は5年12月に漱石が没した後、夏目家から遠ざかっており、同年以降虎雄との関係もあるいは途切れたかもしれません。このような事情もありますが、少なくとも忠雄とは関係が保たれていたのではないでしょうか。忠雄とは虎雄から紹介されて以来の仲でもあり、久米の鎌倉来住についても里見や芥川の影響とは別に、忠雄からも何らかの形で協力がなされたのではないかとも考えられます。

写真:長谷三橋旅館絵葉書
長谷三橋旅館絵葉書

浪川幹夫

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