「鎌倉文士村」ができたわけ(5)

菅虎雄、忠雄父子から鎌倉居住を斡旋された文士たち(3)

大佛次郎(1897〜1973・小説家)
 大佛次郎は大正10年(1921)2月、東京帝大法学部政治学科在学中に原田登里と結婚し、同年に卒業、菅虎雄の紹介で、私立の鎌倉高等女学校(現鎌倉女学院)の教師となりました。現在、鎌倉女学院にのこる大佛自筆の履歴書に「神奈川県鎌倉郡鎌倉町海岸通居住右 野尻清彦 大正拾一年一月拾二日」とあり(『鎌女回想写真でつづる九十年の歩み』鎌倉女学院)、さらに「私の家からほんの二三分で行ける位に近い所に野尻さん夫妻の家はあった。その頃、外務省に勤めていられた野尻さんであった」(「野尻さん」星野立子『鞍馬天狗第二巻付録 月報』中央公論社)とあります。前述したように、菅虎雄は明治43年に「鎌倉町由井ケ浜海岸通り小林米珂荘」に転居し、大正10年(1921)福岡より乱橋材木座1166番地に転籍、ここに昭和13年頃まで居住しました。そして、この文章をしたためた星野立子の父の高浜虚子が、明治43年(1910)12月から菅と同じく米珂邸敷地内に家族と共に住んだといい、以上の史料によって大佛は大正10年末頃から由比ヶ浜の「海岸通」に居住したことが伺えます。

 ところで大正11年には、大仏裏にあった「和田塚に住んでいた帰化弁護士小林米珂(デ・ベッカー)さんの別荘」(「長谷の家」大佛次郎『図説鎌倉回顧』)に住んでいた記録があります。大佛は同年のうちに最低一回は引越しました。前述の「海岸通」の家は星野の記述によれば菅家と同様米珂邸敷地内か、あるいはその近所に在ったと考えられます。さらに大仏裏の住居も米珂の別荘でした。来鎌してすぐに勤めた先が鎌倉高等女学校であり、その年の1月には海岸通りに住んでいたことが履歴書に見えています。そして星野の文章や、大仏裏の住居が米珂の別荘だったことを勘案に入れても、やはり鎌倉での最初の家が海岸通りの菅家や高浜家の近所にあったことは、ほぼ間違いないでしょう。いずれにせよ、初めて住んだ鎌倉の家は、菅父子と米珂との関係から得られたと解釈できるのではないでしょうか。
 大佛は大正12年の震災に遭遇、「私たちの家も半ば倒れたので、妻と共に乏しい荷物をまとめ、大佛坂の牛乳屋の棟続きに部屋を借りて引越した」(「長谷の家」)と、震災の前後は大仏付近を転々としたようです。
 ところが最近、その後の大佛の居住地について、坂ノ下にある御霊神社(俗に「権五郎」さんとも)の方から貴重なお話を賜りました。その言によれば、母親から聞いた話として、大佛は同宮参道にある現在の消防第二十五分団の西裏辺り(坂ノ下18−5辺り)に住んだといいます。そしてその方の母親は明治39年の生まれで、鎌倉高等女学校で彼に学んだといい、詳しく知っていたとのことです。また一方、大佛次郎記念会刊行の『「おさらぎ選書」第一集』によれば、大佛は当時用いていた「阪下五郎」の筆名で、大正13年8月に「夢の浮橋」を『ポケット』に掲載したのを初めとして、以下同年9、10、11月、14年1、4、5、9、10、12月、15年2月、昭和2年3月とこの筆名で小説や随筆などを同誌に載せました。当時、彼はこのほかにも「田村宏」や「白雲亭去来」等の筆名も用いて執筆しましたが、「阪下五郎」を用いたものの方が圧倒的でした。この「阪下五郎」は坂ノ下の「権五郎さん」をもじって作った筆名と思われます。そして彼が当地に住んだ時期にこれを多用したと仮定すれば、前述の話も裏付けられるので、おそらく大正13年頃から昭和2年頃まではここに居住していたと考えてもよいのではないでしょうか。
 さらにこのあと、昭和3年(1928)から4年頃には「鎌倉材木座」に居住したと思える事跡もあり、そして昭和5年頃から雪ノ下に居住、没するまで当地を居所としました。

写真1
和田塚近景

写真2
坂ノ下・御霊神社の近景

浪川幹夫

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