「鎌倉文士村」ができたわけ(4)

菅虎雄、忠雄父子から鎌倉居住を斡旋された文士たち(2)

芥川龍之介(1892〜1927・小説家) -その2-
 では、前回お話ししました芥川の鎌倉二度目の居所「小山別邸」はどこにあったのでしょうか。芥川と交際があった小島政二郎の長編小説『芥川龍之介』(読売新聞社)には、「大町辻と云うところで、横須賀線の汽車が鎌倉を出て間もなくのところに、大きな別荘があって、その庭の一部分に離れのような独立した家屋があり」とあって、駅の近在かあるいは線路沿いであることが伺えます。しかし大町辻の範囲は、貞享2年(1685)刊の『新編鎌倉志』巻之七によれば「〇辻町 辻町は、逆川(さかがは)橋より乱橋(みだればし)までの間を云なり」、また「〇辻薬師 辻薬師(つぢやくし)は、逆川の南、辻町の東にあり」とあって、「辻町」が大町辻のことをいうとしますと、現在の大町二丁目3〜6、10、11辺りと、材木座一、二丁目にかかる広い地域になってしまいます。
 ところで話が飛びますが、大正8年7月25日に『白樺』派の同人長与善郎が鎌倉に移り住みました。園池公致に土地探しを依頼したといい、「親切な園池はもう由井ヶ浜の砂丘に近い麦畑の中に丁度恰好の借地を見つけていてくれた」とあって(『わが心の遍歴』長与善郎 筑摩書房)、由比ヶ浜辺りであったようです。ちなみにここの住所は、10年2月15日長与に宛てた岸田劉生書簡の表に「神奈川県鎌倉町大町辻一四九」とあり(『岸田劉生全集 第10巻』岩波書店)、12年刊の『文芸年鑑』記録にも同じ住居表示が見えますで、この住所であったことはほぼ間違いありません。なお、ここは現在の由比ガ浜1−6−32です(『鎌倉町土地宝典』「昭和五年十月一日現在」の記載あり)。

 長与善郎のこの家へは8年から12年まで、岸田劉生や志賀直哉から「鎌倉大町」あるいは「鎌倉大町辻」で手紙が届いておりまして、「大町辻」のみで郵送が可能であったとすれば、笹目と塔ノ辻に接するこの地域が当時「大町辻」と慣用句的に呼ばれていた可能性が高いと考えられます。そして芥川が住んでいた頃とほぼ同年代であるところから、前述の彼の書簡に見える「鎌倉でも乱橋と停車場との中間」の「乱橋」を大字の「乱橋材木座」という意味でとらえ、さらに小島の記述をワイドに解釈すれば、おのずと「大町辻」が当地であったとも推測できます。
 史料が少なく「小山別邸」の正確な位置や芥川が居住した借家について確かなことは言えませんが、以上のことから「大町辻」は、当時笹目と塔ノ辻に接する地域のことを言ったのかもしれません。しかし、昭和4年の『神奈川県職業別電話名簿』に見える住所に「大町辻九三一(現大町2−3−6、7)」とあり、大町四つ角付近のことを示した記録もありますので、やはり「小山別邸」が従来言われているように線路際の辻ノ薬師(大町2−4−18)の近くか、あるいは元八幡(材木座1−7−16)の近くであったと推定することも否定できないでしょう。いずれにせよ確実なことはいえないので、ここでは二説あるということに止めておき、ここでは断定を避けて後の研究に期待します。


写真1
芥川二度目の家推定地(大町)
地図「鎌倉 KAMAKURA」大正8年11月15日
鎌倉同人会発行(部分)(神奈川県立図書館蔵)

 

 芥川の鎌倉居住は8年3月28日に海軍機関学校を退職して、4月28日に田端へ帰るまでの短い期間でした。また、横須賀へ通勤するための便宜的なものでもありました。しかし、鎌倉における彼の存在は大きく、大正12年(1923)の8月上旬から25日まで鎌倉駅西口近くにあった「平野屋別荘」に滞在し、同じ頃長谷に避暑に来ていた久米正雄と当地で行き来するなど、友人久米正雄の来鎌を促し、後述の彼の鎌倉居住に何らかの影響を与えたとも考えられます。



写真2
「平野屋別荘」の位置
大正10年12月東京交通社発行の
「鎌倉町 藤沢町 片瀬 腰越 江之島」案内図より(部分)

浪川幹夫

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