「鎌倉文士村」ができたわけ(3)

菅虎雄、忠雄父子から鎌倉居住を斡旋された文士たち(1)

芥川龍之介(1892〜1927・小説家) -その1-
 小説「鼻」や「羅生門」などの作品で知られる芥川龍之介が、鎌倉に二度居住したことはよく知られています。しかし、二度目の居住地については旧来の見解と若干異なった要素がみられますので、ここでは二回に分けてその真偽について詳しく私見を述べて見ようと思います。
 芥川は大正5年(1916)12月、海軍機関学校の教授嘱託となりました。11月13日田端から、一高当時の師であった菅虎雄に宛てた書簡に、鎌倉に住んで横須賀へ通うため、便のよい下宿探しを依頼しています。
 そして松岡譲に宛てた12月2日消印の絵葉書には、表に「鎌倉海岸通野間栄三郎方 芥川生」とあり、「ここへ来た八畳の間でちやんとしてゐる 授業は火曜から」(『芥川龍之介全集 第10巻』 岩波書店)などとあって、11月末頃から海浜ホテル隣りの「野間西洋洗濯店(野間栄三郎方)」の離れに下宿しました。ところでこの史料のほかに、当時の別荘地鎌倉の物価高について卒直に書かれている興味深い書簡もあります。さらに、「東京市本郷区本郷五丁目廿一 新思潮社内」の松岡譲に宛てた12月5日消印の葉書によると「僕の所は和田塚の電車停車場からすぐだ」とあって(前掲書)、この図から彼が最初に住んだ下宿を推測すると、だいたい現在の由比ガ浜4−6−9辺りかと思われます。
 ところで「野間西洋洗濯店」は、『現在の鎌倉』に「▲西洋洗濯」として「野間栄郎」と記されています。地図からするとこの洗濯店は海浜ホテルの隣にあったので、ホテルとも何らかの関係があったことが伺えます。そしてその点からすれば、芥川の当地居住についても、菅を通じて同ホテル支配人でもあった小林米珂が介在したのではないかとも推察できましょう。


写真1
芥川最初の居住地(▲の所が推定地)
地図「鎌倉 KAMAKURA」大正8年11月15日
鎌倉同人会発行(部分)(神奈川県立図書館蔵)


写真2
海軍機関学校(絵葉書)(大坪元昭氏蔵)

 なお、菅忠雄(1899〜1942・小説家・編集者)は虎雄の二男です。大正2年逗子開成中学校に入学。5年末頃から近くに住んだ芥川が、虎雄の依頼で彼の家庭教師をしていました。上智大学を中退後、父を通じて久米正雄、菊池寛を知り、文藝春秋社に入社して『オール読物』の編集長等も勤めたといいます。また、『文芸時代』創刊号からの同人です。昭和17年没。享年44歳でした。
 このあと芥川は大正6年(1917)9月14日から一時横須賀に転居しました(6年9月13日 芥川書簡)。しかし、芥川は結婚が決まったようで、再び鎌倉に転居すべく忠雄に家探しを依頼しました(12月26日 芥川書簡)。
 翌7年芥川は鎌倉の「乱橋と停車場との中間にある寂しい通り」に間数の広い借家を選び、3月29日にその「鎌倉町、大町、字辻、小山別邸内」に引越しました(7年3月11日・29日芥川書簡・前掲書)。
 芥川が新婚時代に住んだ「小山別邸」とは、明治45年刊行の『現在の鎌倉』に「同(鎌倉町)大町辻 同(東京)四谷、霞 土木請負 小山新助」とあるのがそれでしょうか。彼の随筆「身のまはり」には、鎌倉の辻という「或実業家の別荘の中に建つてゐた」借家に居たとありますので(『芥川龍之介全集 第8巻』 岩波書店)、一応この人物の別邸であったと推測できます。

浪川幹夫

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