「鎌倉文士村」ができたわけ(2)

菅虎雄の存在と夏目漱石

 前回お話ししたとおり、『白樺』派の人々の鎌倉居住はおおよそ関東大震災までです。ところで、彼らとは別に大正時代の中頃から末期にかけて芥川龍之介、久米正雄、大佛次郎(おさらぎじろう)ら当時の新興の文学者が鎌倉に住み始めました。社会的背景については後述いたしますが、ここでは彼らの交際関係から、鎌倉来住のきっかけについて考えてみようと思います。
 まず、一つの要因として菅虎雄(すがとらお)・忠雄(ただお)父子の存在が考えられます。
 菅虎雄(1864〜1943・独語学者)は、東京帝国大学医学部に学び、のち独文科に転じて日本におけるドイツ文学研究の嚆矢(こうし)となった人物です。明治21年(1888)円覚寺に参禅、翌年再来した折に円覚寺派初代管長(かんちょう)の洪川宗温(こうせんそうおん・1816〜1892・号、蒼龍窟・そうりゅうくつ)から「無為(むい)」の居士号を授けられました。「蒼龍窟会上居士禅子名刺」(東慶寺蔵)に「福岡県筑後国御井郡久留米呉服町四十三番地 東京本郷区元富士町帝国大学寄宿舎 無為 菅 虎雄」と、その名がみえます。
 明治35年(1902)から昭和7年(1932)まで第一高等学校のドイツ語の教授を勤め、書家としても知られました。夏目漱石(1867〜1916・小説家)とは一高以来の友人で、芥川龍之介や久米正雄らにドイツ語を教えたといいます。
 明治43年(1910)から「鎌倉町由井ケ浜海岸通り 小林米珂荘」に移り住み、大正10年(1921)に「鎌倉町乱橋材木座1166番地(現鎌倉市由比ガ浜3−6−2と4)」、さらに昭和13年(1938)には「鎌倉町二階堂129番地」に転籍し、昭和18年80歳で没するまでここに住みました。学友夏目漱石の円覚寺参禅や避暑のための来鎌に深くかかわっています。


 なお、小林米珂は「英国法律顧問、弁護士」です。英国子爵ニコラ・デ・ベッカーの三男で、1863(文久3年)に生まれました。本名をJ・E・デ・ベッカーといい、明治24年(1891)8月日本に帰化したといいます(『横浜社会辞彙』大正7年)。明治40年代には鎌倉に居住したようで、「株式会社鎌倉海浜院ホテル取締役」も勤めております(『横浜成功名誉鑑』明治四十三年)。鎌倉居住の事跡としては、明治40年8月24日の『横浜貿易新報』に「材木座1123(現地番不明)」(この時の記事は米珂邸の焼失のことを伝えたもの)、明治45年(1912)に鎌倉町小町の通友社から刊行された『現在の鎌倉』(大橋良平)に「同上(鎌倉町) 海岸通 同(横浜)山下 代弁業 小林米珂」とあり、また『神奈川県職業別電話名簿 地方之部』(昭和4年)に「一九 小林米珂 材木座一二六六(現鎌倉市由比ガ浜3−7−4と45辺り)」とありますが、没年等については未詳です。そして菅虎雄のほか、後述するように高浜虚子(きょし)一家にも家を貸しており、彼は海岸通りに広大な邸宅を所有したと思われます。


 それではまず最初に、菅と漱石との当地での関わりを略記します。
 夏目漱石は明治26年(1893)7月大学院に籍を置き、10月には東京高等師範学校の英語教授の嘱託を受けました(26年10月27日漱石書簡・『漱石全集 第14巻』岩波書店)。しかし教師と大学の寄宿舎生活の窮屈さから精神に異常を来し、27年夏休暇に松島の瑞巌寺で参禅を試みましたが失敗しています。その後は、27年9月4日の漱石書簡(前掲書)によりますと「落付かぬ心を制せんと企て」、8月に小坪に避暑がてら滞在したようです。
 そして小坪から帰った漱石は、大学寄宿舎を出て小石川にある法蔵院に越しました。が、そこでも精神状態は良くなりませんでした。そこで一高の先輩であった菅が紹介し、27年12月末から2週間ほど円覚寺の塔頭(たっちゅう)帰源院に投宿。管長に就任して間もない洪嶽宗演(こうがくそうえん・1859〜1919・号、楞伽窟・りょうがくつ)のもとに参禅しましたことは有名な話です。
 28年1月10日漱石書簡によれば、「小子去冬より鎌倉の楞伽窟に参禅の為め帰源院と申す処に止宿致し旬日の間折脚鐺裏(せききゃくそうり)の粥にて飯袋を養ひ漸く一昨日下山の上帰京仕候 五百生の野狐禅遂に本来の面目を撥出し来らず御憫笑可被下候」(前掲書)、さらに、「斯くて再び参禅が始まる。私の順番になつて未明に授かつた公案について見解を述べる、言下に退けられて了ふ。今度は哲学式の理窟をいふと尚更駄目だと取合はぬ。禅坊程駄々ツ子はあるまいとほとほとほと感じた」(談話「色気を去れよ」『漱石全集 第16巻』岩波書店)とあるように、師より公案を授かりますが(小説「門」には「父母未生以前本来の面目は何」)、「本来の面目を撥出し来らず」に帰源院をあとにしています。なお、参禅の体験は、「門」に宗演を老師、宗活を宜道、漱石を宗助、帰源院を一窓庵と置き換えて描かれています。

 また、東慶寺が所蔵する「楞伽窟会上居士禅子名簿」には、「菅虎雄氏紹介 北海道庁平民東京小石川区表町七十三番地法蔵院ニテ 文学士 夏目金之助」と記されています。
 この後、虎雄は明治45年(大正元年)6月末には漱石とその家族のために材木座紅ケ谷の「田山別荘」を紹介し、同年9月には満鉄による宗演の満州巡錫(じゅんしゃく)の仲介役を引き受けるなど、漱石が没するまで彼のために尽力しました。

浪川幹夫

写真「楞伽窟会上居士禅子名簿」(東慶寺蔵)
「楞伽窟会上居士禅子名簿」(東慶寺蔵)
夏目漱石のほか、浜口雄幸など著名な政治家、実業家の名も見える。

円覚寺舎利殿(八雲神社蔵)
円覚寺舎利殿(八雲神社蔵) 明治20年代の写真。
塔頭正続院にある。
当時、管長の宗演はここに住んだ。
漱石の作品「門」にここの情景が描かれている。

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