「鎌倉文士村」ができたわけ(1)

はじめに

 鎌倉はドイツ人医学者ベルツ(1849〜1913)や、我が国の医事、衛生行政に関する諸制度の基礎を創った長与専斎(ながよせんさい・1838〜1902)らの影響により、明治時代の中頃から観光地や保養地として、また、別荘地としても栄えた近代史上特異な発展をした町です。そして、近代の歴史上忘れてはならないのは、多くの文学者がいたことです。今までの研究成果によれば、現在までに280名以上の文学者や知識人が入れ替り立ち替り住んだことがわかっています。しかし、どのような経緯で居住し、いつごろからこれだけの人々が住んだのかは不明でした。

 そこでこのシリーズでは、鎌倉でいわゆる「鎌倉ゆかりの文人」が居住することによって形成された集合体(ここでは便宜的に「鎌倉文士村」とする)の成立過程についてお話ししようと思います。
 なお、文学者の写真については、鎌倉文学館のホームページをご覧下さい。

『白樺』派の存在

 島本千也氏の論文「『白樺』派と鎌倉」(雑誌『鎌倉』)によれば、大正8年(1919)前後から12、3年頃にかけての時期に有島武郎、有島生馬、里見の三兄弟、園池公致(そのいけきんゆき)、長与善郎、木下利玄、岸田劉生(りゅうせい)、正親町公和(おおぎまちきんかず)、千家元麿(せんげもとまろ)、梅原龍三郎、倉田百三らいわゆる『白樺(しらかば)』派同人並びに同誌に何らかの形で関わった人々によって文学者の集住が形成されました。彼らの多くは旧大名家や公家、政官界や財界などの重職にあった人々の子息であり、明治15年に文部卿、さらに16年から宮内卿(後の宮内大臣)の所轄となった華族の特殊教育機関、学習院の出身者によって構成されました。これらの人々の経歴や来鎌、居住については氏の論文のほか、『鎌倉別荘物語−明治・大正期のリゾート都市−』に詳しく書かれております。ご参照下さい。
 この『白樺』派の人々も、関東大震災を境にして病没や転居などの事由で居住者が減りますが、その後も有島生馬や園池公致、早くに同派を離れた里見は、没するまで鎌倉に住んで創作活動を続けました。

浪川幹夫

写真(開設当初の鎌倉停車場)
開設当初の鎌倉停車場(八雲神社蔵)
明治22年6月開通。保養地鎌倉の発展を促進した。

大正時代(震災前)の鎌倉遠景
大正時代(震災前)の鎌倉遠景 『KAMAKURA FACT AND LEGEND』
陸奥イソ 大正7年8月(初版) タイムス出版社

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