山    門

山門は2011年に復興し、2013年に国の重要文化財に指定されました。
このページは復興前のものです。

写真は旧地にあった時のものです。
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山 門 について

     現時点では(平成19年6月)、解体され部材のまま神奈川県の重要文化財に指定され、境内に保管されています。
      桁行 (正面) 三間 約6.4m、梁間 (奥行き) 二間 約3.8m、二階二重門で、寛永二十年 (1643)の建立です。
     初層は、柱が端が丸く削られた (ちまき) 付で、斗栱は実肘木と挙鼻付の出組です。 中央の柱と柱の中間には同じ斗栱を配しますが、そのほかのところは蟇股 (かえるまた) が配されているのも特徴のひとつです。

     上層は、禅宗様の高欄をめぐらし、窓は格狭間 (ごうはざま) 風の輪郭を持つ花灯窓、又は眼象窓 (げじょうまど) とよばれる比較的珍しい形のものです。

     柱とその上に置かれた台輪の上には、二手先斗栱を配します。

     斗栱の後ろ側の壁は雲文の彫り物、肘木にも絵様刳形 (えようくりがた:渦や波・雲のような装飾用彫り物) があり、 装飾性に富んだものになっています。

     屋根については、初層が二軒繁垂木、上層は二軒扇垂木です。初・上層ともに瓦棒銅板葺きで反りがなく、仏殿その他の建造物と同様です。

山門建立と再建への経緯

img_11      山門は寛永二十年 (1643) 、徳川頼房の長子の讃岐高松藩主松平頼重という、水戸黄門で知られる徳川光圀の兄が建立したもので、後水尾上皇宸筆の「英勝寺」の扁額を掲げており、重要な文化財です。

     関東大震災で倒壊したため篤志家のが買い上げるところとなりましたが、状態もよく保存されておりました。

     近年、ご住職を始めとする多数の賛同者のご尽力により、旧地にあった山門は解体のうえ境内へ運び込まれ、あまり例のない部材のままでの県重要文化財指定というのことになりました。

山門を松平頼重が建立したわけ

     英勝寺は水戸徳川家の祖徳川頼房の養母となった英勝院が開基となって、自らの菩提寺として創建しましたので、伽藍の多くは徳川頼房が中心となって建立したと見られます。

     ところがが山門だけは、徳川頼房の子松平頼重が建立しています。

     頼重については英勝院のいろいろな計らいがあって藩主にまでなることができましたので 、頼重の英勝院への思いも特別のものがあったのです。
     (英勝寺の歴史を参照してください)

     寛永十九年(1642)の八月に英勝院はなくなりますが、現存する山門の棟札によれば、同じ八月の十六日に、山門の造営が頼重の手によって行われたということで、頼重の英勝院への深い思いがしのばれます。


山門を建立した松平頼重とは

     松平頼重は水戸徳川家の祖、徳川頼房の長子で、水戸黄門で知られる徳川光圀 (1628-1700) の兄です。

     父頼房は頼重が生まれたときに、頼房の兄である尾張や紀伊徳川家に嫡男がおらず、遠慮して頼重を葬らせようとしたそうです。しかしながら英勝院の計らいで誕生したといわれ、京都天龍寺の塔中で育ち出家するはずでした。

     (そのため、また頼重が病弱のためともいわれますが)頼房光圀に跡を継がせました。頼重はその後大名となり、寛永十九年には讃岐高松十二万石の城主にまでなりましたが、それは英勝院の亡くなる直前のことでした。

     その年の八月に英勝院が亡くなり、翌二十年の一周忌には、頼重は父頼房、弟光圀らとともに英勝寺を訪ねています。その直前から頼重の手で山門の建立が始まりました。

     なお、徳川光圀は自からの子ではなく、頼重の子綱条(つなえだ)に跡を継がせたためその後の水戸家は頼重の子孫が継ぐことになったということです。

     因みに光圀は延宝二年 (1674) に鎌倉をたずね、『鎌倉日記』を著しています。