梶原太刀洗水


鎌倉駅より「金沢八景駅行」または「太刀洗鎌倉霊園前行」の京急バスに乗り、 十二所神社前(じゅうにそじんじゃまえ)にて下車します。 梶原太刀洗水
バス停の前の信号より道路を横断し、道案内の標識に従って朝比奈切通へ通じる旧道に入ります。 太刀洗川に沿って旧道を500mほど進みますと前方に分かれ道があり、その左手に小さな滝が見えてきます。

分かれ道に差し掛かる少し手前左側、 太刀洗川の対岸の山裾のところから筧が有り、その先端より清水が流れています。左の写真に見られるように、 注意して探さないと見落すほどの泉です。この小さな泉が、鎌倉五名水の一つの「梶原太刀洗水」(かじわらたちあらいみず)です。

梶原太刀洗水の由来に就きまして新編鎌倉志に次のように述べています。 「平広常(上総介広常)は頼朝卿に属して義兵を助け、良策戦功多し。後に讒言(ざんげん)に因りて、 頼朝に疑われて、寿永2年(1183)12月に殺されたり。「愚管抄」に、介八郎広常を、梶原景時をして討たせしたり。 景時、双六打て、さりげなしにて、局を越えて、頓て頸をかいきりて、もてきたりけるとあり。 後に広常、謀反にあらざる事、明白になり、頼朝は広常を殺したことを後悔した。鎌倉より切通の坂へ登る左方に、 岩間より涌出る清水あり。梶原が太刀洗水と名く。或いは、平三景時、広常を討ちし時、太刀を洗いたる水と云う事か。 是も鎌倉五名水の一なり。」

愚管抄(ぐかんしょう)とは、著者は関白藤原忠通の五男の慈円です。慈円が書いた日記の愚管抄に、 鎌倉幕府の書いた吾妻鏡と異なる所見が書かれております。広常殺害の事を次の様に書いています。 「介八郎を梶原景時して打たせる事。景時が功名言うばかりなし。双六をうちて。さりげなしにて盤をこえて。 やがて頸をかいきりてもてきたるく。まことしからぬほどの事也云々」。

頼朝が後悔した記録は、吾妻鏡の寿永3年(1184)正月17日の条に、「広常が上総一ノ宮に奉納した甲冑の結び付けた書状を頼朝が 見て謀反でないことを知り、 殺したことを後悔した。」と述べています。

朝比奈切通

和田義盛の三男朝比奈三郎義秀が一夜で切開いたとの伝説がある朝比奈切通(あさいなきりどおし)は、 鎌倉と六浦方面を結ぶ重要な古道です。仁治元年(1240)11月30日に、鎌倉幕府は鎌倉六浦間の道路造成を会議にて決定し、
測量や各々の分担を決めました。翌年の仁治2年(1241)4月5日に着工し、北条泰時が監督をして土石を運んだ。 更に翌月の5月14日に工事の進捗状況が遅いとの事から、泰時の馬を使って土石を運搬したと吾妻鏡に記録されております。
東京湾及び東国方面からの物資を六浦港から運搬する重要な道路です。 また外部からの敵の侵入を防ぐための防衛施設跡が多数残されています戦略上の重要な切通でありました。

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