日蓮乞水


鎌倉駅より「名越経由緑ヶ丘入口行」の京急バスに乗り、長勝寺(ちょうしょうじ)にて下車します。 日蓮乞水 バス通りから小道を左に曲がり、平行して走る旧道に入ります。横須賀線の線路に沿って東へ進みますと、 右側に石の柵があり、柵の中に竹製の蓋をした井戸と石碑とがあります。この井戸が鎌倉五名水の一つの日蓮乞水(にちれんこいみず)です。

日蓮乞水につきましては、新編鎌倉志に次のように述べています。 「日蓮乞水は、名越切通の坂より、鎌倉方面に一里半程手前の道の南にある小さな井戸を云います。
日蓮上人が安房国より鎌倉に来た時、この坂にて水を求められると、この水が俄かに涌出しました。水の量は僅かですが、 大旱ばつでも涸れないと言われています。大変に冷たい水です。土地の人の話によりますと、鎌倉に五名水があります。 金龍水・不老水・銭洗水・日蓮乞水・梶原太刀洗水です。」と鎌倉五名水をも紹介しております。

新編相模国風土記稿に次のように述べています、「日蓮乞水は名越切通に達する路傍の小井を云う、 昔日蓮房川より鎌倉に来る時、此処にて清水を求めしに俄かに湧出せしとなり、大旱にも涸れる事なしとぞ、 鎌倉五名水の一なりと云う」と説明があります。

名越切通

名越切通(なごえきりどおし)は、この井戸から東に数百メートル離れた所にあります、 昔はこの切通の難所を越えて鎌倉に入る際には、汗をかき喉も渇いたであろうから、 冷たい水がある井戸は貴重な存在であった事と推察されます。

この切通は鎌倉から三浦方面への重要な交通路であります。さらに、古東海道の一部であるとも言われております。 「古事記」に「日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際にこの付近を通り、 走水から船に乗り房総方面に渡りました。その際に海が大変に荒れましたので、 海神の怒りをなだめるために弟橘姫(おとたちばなひめ)が海に身を投じた。」と述べております。

名越切通につきましては新編鎌倉志に次のように述べています「名越切通は、三浦へ行道也。此峠、 鎌倉と三浦との境也。甚嶮峻にして道狭。左右より覆いたる岸二所あり。大空洞(おおほうとう)・小空洞(こほうとう)と云う。云々」と、 大変に要害堅固の様子を描いております。

吾妻鏡に名越の名称が見られましたのは天福元年(1233)8月18日の記事であります。 そこには次のように述べております。「第三代執権の北条泰時が、江ノ島神社に参拝のために出かけようとしましたところ、 由比ヶ浜にて死体が発見されました。直ちに参拝を中止して幕府に戻り協議をし、 武蔵大路・西浜・名越坂・大倉・横大路等の鎌倉の出入り口を固め、犯人を捜すように指示した。 名越坂付近にて犯人を捕らえた。」。このように名越坂は、鎌倉と外部の土地との重要な通路の一つであったことがわかります。 また、名越の名称の起こりは道が険しく難路であったことから「なごえ」の名が付いたと言われております。

長勝寺

長勝寺(ちょうしょうじ)に関しましては、新編鎌倉志に次のように述べています。 「長勝寺は石井山と号す。名越坂へ通る道の南の谷にあります。寺内に岩を切抜たる井あり。 鎌倉十井の一なり。故に俗に石井の長勝寺と云う。法華宗なり。寺僧語りて曰く、此処地に昔日蓮、 庵室を結びて居りました。(途中略)今に長勝寺は、荒地なりしを、中興日隆法師と云う僧、旧地を慕い、 一寺建立し長勝寺と号す。云々」とあります。

長勝寺と「銚子ノ井」及び「日蓮乞水」に就きまして新編相模国風土記稿に次のように述べております。 「銚子の井は長勝寺の東方にあり、日蓮の供水と云う。寺伝には日蓮乞水と唱ふといえども是は近きあたり、 同名の小井あるを混じ訛れるならん、(新編鎌倉志)には当寺境内に岩を穿ちし井あり、石井と号す、 鎌倉十井の一なりと記す、此井の事歟今詳ならず。」とあり、 銚子ノ井と日蓮乞水とが近くにあるので混同して呼んだのではと述べているのが面白く思われます。

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