タクシーの中で

 一ヶ月程前のことである。
 或るパーティの帰途、たまたま××銀行の支店長さんとタクシーに乗り合わせた。多少酒も入っていて、とりとめない雑談を交わし、その支店長さんが先に降り、私ひとりになった。八時前か、かなり早い時間だったと思う。

「お客さん、銀行の方ですか」
いきなり運転手さんに声をかけられた。いや、私は違う、と答えて改めてバックミラーをのぞいた。いかにも実直そうな、眼鏡をかけた初老の男の顔半分が映っていた。

「こんなことをお聞きするのもなんですが…」
と言い淀みながら、銀行という所は、たとえ自分の女房の名義でも、通帳の中身はみせてくれないのでしょうね、と話しかけてきた。

 何を言い出すのかと少々不安で、曖昧な返事をしていると、こんな話をし出した。

 去年定年退職して、のんびり暮らすつもりで、一、二ヶ月は女房と旅行してみたりしたが、あとは退屈で退屈でどうにも我慢出来ず、今まで勤めていたこのタクシー会社にお願いして、年金受給に影響のない範囲で気ままに働かせて貰っている、女房も働いているし、子供たちも自立してしまって、何の心配もない、夫婦ふたりの暮らしでは生活費も知れている。だのに……、女房は金がない、金がないと言って小遣いをくれない、要はこれが彼の言いたいところだったとわかり、何となく私はホッとした。

「私も別に何の道楽があるわけじゃなし、たまにパチンコやる位で…。ただ先々、病気で入院でもするようになった時、せめて少しでもいい部屋へ入れてほしい、とそんなことが気になりましてネ」

 この老運転手さんのささやかな望みを、私は車のシートに身を沈めながら微笑ましく、又ちょっぴり哀しい気分で受け止めたものだった。(S.Y)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネル鎌倉」
平成9年3月号掲載
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