涼風(すずかぜ)が吹いた

 六月も終わりに近い土曜日の午後、梅雨のさなかだというのに、抜けるような青空の、真夏を思わせる暑さの中を、あるお宅を訪問するというちょっぴりワクワクする思いを抱いて、名越の大踏切の先のバス停で降りた。今日はそのお宅で講談の会があって、それを聞くために初めて家へ伺うという、何とも変わった訪問だった。もっとも全然知らない人の家ではない。細谷正之さん、ささめやゆきのペンネームで、油彩画、木版画、エッチングなど多彩な活動をしているアーティストである。私の気持ちの中では、大変親しみを覚えている方だが、そう深く付き合っているという訳でもない。私が以前鎌倉ケーブルテレビにいる時に、番組のガイド誌の表紙画をお願いした。風景でも人物でも何でもいいが、鎌倉に関わるものを描いて下さいとお頼みした。五年間、約六十枚の絵を描いて頂いた。どの絵にも、ささめやさんのやさしい眼差しがあった。ケーブルテレビという、地域の人たちの中に融けこんでいかなければならない仕事に必要なのは、こういう眼差し、つまり心だと思った。経営合理化の波で、ガイド誌が統一のものとなり、五年で終わった。その後四、五年たって、松竹の大船撮影所が閉鎖となり、私はその時三十数年間の思い出を綴った本を出版した。装幀画をささめやさんにお願いした。巻頭のさし絵は、亡くなる一年前の横山隆一先生が書いて下さった。中身が恥ずかしいようなつくりの本になった。考えてみると、ささめやさんには、十五、六年もの間、一方的なお願いばかりで、勝手に片思いをしているようなものである。
 地方の旧家の梁(はり)や柱を活用した、真白な本壁のがっちりした骨組みで天井も高く、素朴で開放的な応接間に、小さな座布団が敷きつめられ、演台は机の上に板を置いて赤毛暁(もうせん)で包み、釈台は流石に本もので、きちんとしたしつらえであった。演台の後の紺染めの壁掛けをめくって、ひょこっとご主人、いや"ささめ亭"席亭のささめやさんが顔を出し、これから始めます、と口火を切った。四代目宝井琴調、名人といわれた六代目宝井馬琴の内弟子として修行に励み、五十二才、真打になって既に二十年、実力派の中堅だ。
 谷戸の奥というのに、材木座の海から真直ぐに吹いてくる風が、緑の樹間を通って涼やかに席亭を吹き抜ける。賛沢極まりない寄席である。二席、大いに堪能させてもらい、終わるや否やささめやさんの号令一下、席亭は宴席に早変り、琴調師匠も加わっての大パーティ。私が感動したのは、ここからである。ひとりひとりに、竹の皮(ご存知か!)につつんだお弁当、お握りがニヶ、一ヶは五穀米、卵焼き一ヶ、鮭一切れ、たくあんという内容も見事、テーブルの上に並べられたおかずはすべて手作り、スーパーで買ってきて、袋から出して並べたようなものなどひとつもない。大袈裟でなく、私は声を呑んだ。いま時、こんなもてなしをしてくれる家庭があるんだ、と。多分その日の席の年長者は私だったかもしれない。五十年ぐらい時間が逆戻りした気がした。
 戦後昭和二十年代の中頃、仲間のサラリーマンも学生も、若奥さんも女子学生も集って、皆ただ芝居が好きで、年に二、三回、学校の講堂を借りたりして素人演劇をやっていたことがあった。誰もがそれぞれの事情を抱えていたが気持は一つになっていた。一公演終わっての打ち上げの席で、必ずと言ってよい程次の公演が決まった。終る、ことが寂しかったのだ。人と会って心を交わすことから希望が生まれた。稽古におくれたからと泣いて謝る奴もいた。空気のように気持ちが飛びかいながら通じあった。あんな気持ちのよい時間と空間はなかったと、今でもよく思い出す。
 ケースは全くといってよい程違うかもしれないが、流れている空気に、私は懐かしいものを感じた。多分、ささめやさんという人柄を中心に、仕事がらみの人も、ご近所づき合い人も入り交じって、楽しいときをすごしたいと思っているだけなのだ。ささめやさんは、そのステージを作り、ちょっとタクトを振るだけだ。それでいて、手作りの野莱料理と竹の皮包みの弁当というさり気ない演出、加えて今流行の落語でなく、講談という渋いスパイスをきかせた、鎌倉の或る土曜日の午後−。
 いい鎌倉がここにあった、私はとても爽やかな気持でささめや邸の階段を下った。
 パス通りには、まだまだ暑い西陽が正面から差していた。駅前に戻ると、今年になって異常にふえている観光客で、このあたりは、まだごった返していた−。
山内 静夫
(鎌倉文学館館長)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成19年8月号掲載
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