言うは易く

 当節、品、品性、品格ということばをよく耳にする。日本国は品格を失っている、と喝破してベストセラーの本を生み出した人もいる。かと思えぱ、「上品な人、下品な人」という、まことにそのものズバリのタイトルの書物もあるようだ。人間誰でも、オレは品が悪いと思っている人はあるまい。他人(ひと)のことはよくわかっても、自分のことはわからないものだ。ひとの悪口を言う時、品がねえよ、アイツは、ということばは、かなり相手を傷つける。しからば、「品」とは何ぞや、と改まると、結構答えがむつかしい。昔のことばで、人品骨柄卑しからず、などと言うのは、その人物から自然に感じられる品格のようなものを指すのだろうが、果してその人物の行動すべてが格調高いかどうかはわからない。人は見かけによらぬもの、などということばもある。時代劇調の言い廻しばかりで恐縮だが、尾羽(おは)打ち枯らした姿、などとひとが眉を顰(ひそ)めるような生きざまの人の方が品性正しいような場合もある。つまり外見とか言動だけでは、ひとの品性を云云することは出来ない。品の悪い、ということには、どことなく悪の匂いが感じられたりするが、それも一概には言えない。
 反対に、上品、品のいいというのも判断がむづかしい。上品ということの裏づけに、上流社会とか富貴というものがあると考え勝ちだろうが、そうだろうか。人間の慾望という醜いものに、上品という衣をかぶせる、よく言う上品ぶるというのは、一転して人間の最も品の悪い行為ではないだろうか。
 江戸川柳にこういうのがある。「きれい好き 夜はすこぶるきたな好き」、少々下(しも)がかっていて誠に恐縮だが、かって某有名映画監督が、酔うとよくこの川柳を口にした。きたな好きというのが何とも言えん、と悦にいっていた。品がいいとは義理にも言えないが、人間の本性、眞実の心がこの川柳にはある。この川柳にある男は品が悪いのだろうか。大店(おおだな)の若旦那、眞面口な性格で昼間一生懸命お店で働き、店を仕舞うと掃除もきれいに、品物もきちんと片付け、自分の部屋に戻る、新妻も奥の仕事で昼間は顔を見ることも出来ない。やっと二入だけになれて愛を交わす、堪えていた若い情熱がほとばしり出て我を忘れる。見ようによっては美しいと言えるものかもしれない。
 脱線してしまった。品のいい悪いは、見かけではない。人それぞれの心ばえ、心根がどこにあるかで、右へも左へも行ってしまう。品の悪い生きざまになるのは多分たやすいことだと思うし、志を高くもつことが出来れば、自ずと品のよい生き方が出来るのではないだろうか。そう考えると、「品」というものは、己れの心の中にあるのではないか。だから油断は出来ない。今の世の中、環境が悪すぎる。特にテレビというメディアのもつ影響力は恐ろしい。<たしなみや教育を欠き、礼儀作法をわきまえないために、これに接する人に不快な感じを与える様子>を、下品、と辞書に書いてあるが、テレビは不快な感じを与える前に、それを笑いという衣(ころも)に包んで社会に流している。世の中がどんなに変ろうとも、礼儀作法も服装も動作も守るべきデッドラインがない筈はない。勿論受ける側の年令差などもあろうが、とても笑って済ませられるものじゃない。およそ品の悪い腰の動かし方を売りものにしているタレント、学歴もあり、常識もあるのに、何故あんなポーズをするのか、神経を疑う。又他のタレントの眞似をするのが売りもののタレント、昔から声帯模写、形態模写とか百面相などという寄席芸の伝統はあるが、現在の連中は、勿論何人かのきちんと芸になっている人もいるが、情けなくて見ていられないのが多い。近頃国会議員の方もまことに気易くテレビ番組に出演されるようになったのは、何の目的だろう。政治を国民の身近かに、わかりやすくとかの名分(めいぶん)があるのだろうが、やたらに大声でわめき合って、他人(ひと)の話も聞かず自分の主張をする。(勿論そうではない番組もあるが)、私には残念ながら、非常に品の悪い人柄に見えてやりきれない。人にはそれぞれTPOがあって、しかるべき時に、しかるべき場所で主張を述べるのが、品格のある人間のすることであろう。
 品性を保って生きたい、と人は思う。ならば世間がどうであれ、己れひとりその志をもって生きればいいではないか。お仰せの通りだが、そこはそれ、傍(はた)にばかり眼がいって、他人(ひと)のことが気になってしようがない、それが凡人の浅はかさで・・・。
  "日暮れて 道遠し"
とは、このことか−。

山内 静夫
(鎌倉文学館館長・KCC顧問)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成18年10月号掲載
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