まちに香りを

 私は、1925年生れである。
 1926年は、昭和元年だから、昭和の時代すべてと平成になっての18年を生きてきたことになる。年齢の問題ではなく、時間の長さをしみじみ思う。小学校三年生の頃に戦争がはじまり、大学生の時に敗戦を迎えた。白分の青春はすべて戦争の中に埋没してしまったが、それとても今考えれば、私の人生の僅か四分の一に過ぎない。残り四分の三は、戦争を放棄した日本で平和な人生だったかといえば、あながちそうでもない。寧ろこの四、五年が、あらゆる意味で、一番いやな時代である。世界的なテロの横行は、人間の史上で最も卑劣な行為だし、国内的に見ても兇悪殺人事件、何の因果関係もない、殺したいから殺すといった考えられない事件の多発、十三、四歳の子供が、親を、友達を躊躇なく殺す、過去に例がない訳ではないが、人間の心がどうなってしまったのかと暗い気持にさせられる。そればかりではない、JR西日本の尼崎脱線事故を始め、今年に入ってから二回もの山手線の線路事故など、民営化による効率至上主義から生れたのかと思われても仕方がない事故が後を絶たない。航空会社の整備不良によるトラブルなども、一つ間違えば、大事故につながるような事態も頻発している。すべて人間のなせることなのだ。
 尼崎の事故で夫を失った妻が、一周年の日のテレビでこう話した。公共交通機関に携(たずさ)わる方たちは、乗客を乗せているのではなく、いのちを乗せていると考えて欲しいと − 。重いことばだと思った。遺族の方だから言えるのであろう。
 論理的に通るならば、効率化、(人員削減等の)スリム化は、改革への道とだけ考えすぎていないか。これは、ベストセラーの藤原正彦著「国家の品格」にも書かれている。この本は、著者のかなり強引な論理で貫かれているが、私たちの世代には共感するものが多い。私が一番同感したのは、論理偏重の欧米型文明に代わりうる、情緒や形を重んじた日本型文明の可能性、という主張だ。

 この稿の〆切直前に、私は持病治療のため数日東京の病院に入院した。入院する日は、丁度今秋初めて行われる鎌倉芸術祭の記者発表の日だった。そして病室で読んだ「国家の品格」の前述の内容が、短絡的に芸術祭の意図するものと結びついた。
 緑と海の自然、そして歴史を感じさせるまち鎌倉。年間1800万人を超える観光客にとっては、首都圏から一時間という立地条件と相侯って、十分魅力あるまちなのであろう。更にこの土地には、曽って多くの芸術家たちが住み、まち全体が文化の香りの漂うまちであった。鎌倉に居住する人たちにとっても、それはいささかの誇りと優越感を持たせてくれるものだった。果して、今日現在もそうであろうか。前鎌倉商工会議所の会頭の久保田雅彦氏は、事あるたびに、鎌倉のまちは香りを失っている、と言われた。同感であった。久保田氏も私も、八十年近い歳月をこの土地で過してきた生粋の鎌倉人で、鎌倉の時間、空間の移ろいを見つづけてきた中での、悔恨に近い思いなのである。香りとは一体何なのだろう。それこそが情緒と呼ぶべきものと、私は思った。論理ではない、思いやる心とか、(「国家の品格」の中で藤原正彦氏は、側隠(そくいん)の情、という表現を使っているが)もっと端的に言えば愛情というべきものを、鎌倉というまちに対しどれ程持っているか、ということではないか。
 鎌倉芸術祭は、原点に"鎌倉のまちのために何かできることはないだろうか"という、15周年を迎えたKCC松本社長の発想があったとしても、いまやその心が広く拡(ひろ)がって鎌倉に住む多くの芸術文化人たちの気持を動かし、早くも相当数のイベントが、その期聞中に行なわれることになっている。
 時代と共にまちも変れば住民も変る。子供の頃から八幡宮の境内を通学路にしていたような人と、社会人になって二十年余、やっと鎌倉のマンションに移り住んだ人とでは、鎌倉に対する思いが違うのは当然だし、世界遺産登録をめざして緑の保全に努めるのと、鎌倉らしい風格のあった邸宅が消え、見た眼には味気ないマンションの建設が進むのと、行政にも矛盾はある。いまのような世智辛い世の中では、論理的に考えれば、芸術文化には仲々思いが到らないのであろうが、世の中には割り切れないがための良さ、というものもあるのだ。勿論損得づくでは話にもならない。だからこそ、この芸術祭という計画が、市民有志の考えが次第に広がって一つの流れが出来つつあることは、鎌倉にとっての大きな芽生えである。鎌倉というまち全体を、質の高い芸術的空間として促えるという発想は、鎌倉だからこそ可能性があるのだと思う。
 久々に、嬉しい予感に心が奮い立つ。
山内 静夫
(鎌倉文学館館長・KCC顧問)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成18年 6月号掲載
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