晩い卒業

 5月31日、私は鎌倉ケーブルコミュニケーションズの取締役を、任期満了で退任した。思えば、昭和23年(1948年)に松竹株式会社に入社してから57年間、松竹系の会社に勤めさせて頂いた。有難いことだと感謝している。これから何年生きているかはわからないが、わが人生の半分以上であることは間違いない。いや人生の殆どすべてと言うべきかもしれない。
 歳をとったせいか、或いは後任の方々が、徐々にエンドマークへの道すじをつけて下さったからか、最後の日も案外坦々としていられた。その上、顧問という名称まで頂いて恐縮している次第である。
 昭和23年10月1日、入社の日のことは、健忘症の私には珍しく覚えている。映画のファーストシーンのような、私もそこにいる情景である。そこでのことは、前に何度か書いたことがあると思うので省略するが、そこからの57年は、月並だが、悲喜交々だった。私が松竹に入って得た最大のものは、小津安二郎先生の知遇を頂いたことだが、それとても時間の長さから言えば57年間のうちの18年なのである。然し、撮影所という創作の現場で、映画界最高の監督に師事できたのだから、幸せこの上ない。勿論その間には、いくつもの悲喜があったかもしれないが、生きている手応えは充実していたように思う。小津先生が昭和38年(1963年)に亡くなられて2年後、私は映画部門からテレビ映画の部門に移った。今思えば、いい転換だったと思う。折から時代はテレビ最盛期を迎えようとしていた。テレビ映画というのは、テレビ局の発注があってから製作に入る。従って、発注を受けるための営業活動が必要で、私には体験のないことであった。これこそまさに悲喜交々であった。その間20年、我ながらよく働いた。テレビ局との交渉、駆け引きと同時に、他の製作会社との競争があった。そしてそこで役員の定年を迎え、昭和61年(1986年)、松竹映像株式会社(大船撮影所が松竹本体から分離独立した会社)へ転任、再び劇場映画の製作を受け持った。昭和60年代、映画界は下降線を辿る一方で、毎年毎年、赤字を重ね、ここでの4年間は、どうすることも出来ない、苦しみの日々であった。
 平成2年(1990年)、松竹はケーブルテレビ事業に進出、鎌倉を放送エリアとして事業を具体化、私は鎌倉住民でもあり、その会社の経営を受け持つことになった。これこそ大転換というか、事業そのものがゼロからの出発だった。机上の事業計画は、下方修正の連続だった。1万件の加入者をとったら、後は加速しますよ、という工事会社の社長の言葉を唯信じて、一軒一軒の加入数の積み重ねを耐えて待った。社員の努力が実って、今では地域全世帯の35%を超える加入者を頂いた。
 57年の間に、私の出発点であった大船撮影所が姿を消した。信じ難いことであったが、既にそれからでも5年が過ぎてしまった。
 まことに、晩い卒業だった。
山内 静夫
(鎌倉文学館館長・KCC顧問)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成17年7月号掲載
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