名もなき小路

  まちの姿がめまぐるしく変る。小町通りのような繁華街の店舗が、一夜のうちに別のお店になっていたりするのは、文字通りめまぐるしく、だが、普通の道すじ、住宅などの場合はそう一挙に変ってしまう筈はないのだが、毎日見ている訳ではないから、ある日ふと見たら見なれた家がなくなっていたり、道巾が広がって、まるで違った道のように見えたりする。長い間目に焼き付いていた風景でそこへ行けばその風景に出会えると思いこんでいる人にとっては、大袈裟に言えば晴天の霹靂、まさに、へぇー、いつの間に、と時の流れと、余計なことだが、わが身の老いまで感じさせられてしまうのである。鎌倉のまちで過す時間が多くなって、気になりだしたのかも知れない。
 例えば私が鎌倉文学館まで歩いていくとして、御成町の自宅を出て、今小路を下り、御成小学校の前を過ぎて裁許橋の手前を右折するまでは、食べもの屋がふえたり、交番が出来たり、御成正門前のお邸がマンションに変るなど、随分様相は変ったが、あの御成小の堂々たる校門がある限りあまり変った気がしない。様変わりを感じるのは、曲がった露地の、もう露地などとは呼べない道巾の広がりである。間違いなく二倍になった。行政上の街づくりのルールがあることは承知しているが、曽っては御成小の土手と反対側の家並の生け垣が、人がすれ違う時に肩に触れる位の狭い小道だった気がする。因みに、私が生れたのはこの露地の中程であったそうな。蔵屋敷という町名だった。左へ曲って佐助の通りへ出るまで、曲がり角の所に裸電球の街灯が一つあるだけで、近道なのだが、子供心には怖いみちだった。佐助へ向う道も、歩道が一段高く整備されて、道も広がっているのだろうが、これは当然だろう。最近は紀ノ国屋角の信号待ちを嫌って、藤沢方面へ行く車の抜け道になっているようだ。そう言えば、この道の右側の大きな邸宅に、昔ライオンを飼っている人がいた。御成中の手前の十字路を由比ガ浜方面へ曲る。そして更に百メートル位先を右折する小路がある。ここは、鎌倉で五指に入る位のいい小路だった。何がいいのか、言葉では言い表しにくいが、強いて言えば、趣がある、風情があるとでも言うのだろうか。音楽評論家の故野村光一氏の家があったのを覚えている。五分とかからない距離でそこを抜けると笹目である。この小路にも名前があるのだろうか。こう書いていると切りがない。その先は、吉屋信子記念館へ行く道も、すっかり感じが変ってしまった。どの小路もすべて舗装されていて、その地域の人々には「改善」され便利になったに違いない。然し、その一方で鎌倉というまちの持つ独特の魅力が失われてしまうように思えてならない。自然も緑も守る、文化財も保護する、鎌倉はいま世界遺産登録という大きな目標に向かっている。鎌倉というまちは、確かに武家政治の発祥の地として、歴史的意義をもっている。それはそれとして、この鎌倉の名もない小路のたたずまいは、詩人田村隆一さんが、作家三木卓さんが、その他あまたの鎌倉の文人たちが、鎌倉の良さとして、こよなく愛してきたことを忘れてはならない。
 風情とか趣とか、こういう美しい日本語がなくなってほしくないのだ。

山内 静夫
(鎌倉文学館館長)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成16年10月号掲載
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