老齢と老人

2003年10月19日  今更珍しくもない話だが、日本は世界一の長寿国らしい。六十五歳以上の高齢者が、総人口の19%だそうだ。イタリア18.2%、ドイツ17.1%、アメリカ12.3%など、諸外国と比べても、世界の最高水準という。これは世界最高かどうかしらないが、百歳を越える人が二万人以上という。昔は、百歳と聞くと、へぇーと驚いたものだが、二万人もいるのでは、いちいち驚いてもいられない。高齢と老齢は違うのか、老齢年金の受給の基準も六十五歳だから、多分同じことだろう。唯、老齢と老人とは明らかに違う。年齢は誰でも等しく一年一年増えていくが、老人というのはそういうものではない。老化した人が老人であって、年齢をとっても一向に老化しない人もいる。誰しもそう願っているのだろうが・・・。
 数日前、大学のクラス会があった。卒業後、五十五、六年を過ぎている。当時の大学予科一年で同じクラスになった時は、五十名ぐらいだったが、いま二十四名現存で、その日は十四人の出席だった。年齢に二、三歳の差はあるが、どっちにしても八十歳前後で、この生存率は高いのか低いのか、よく解らない。何か近況をしゃべろと言うので、三十分ぐらい話をしたが、終わったあと近寄ってきて、悪いけど、キミの話はひと言も聞こえなかった、と言う奴がいた。みんなバラバラに坐っていたのだから、早くそう言えば隣に坐ってやったのに、と思ったが、別に聞きたくもなかったのかもしれぬ。視力が落ちて、来たいのだが来られぬという男の話が出て、目がよく見えないのに、いや見えないからかもしれないが、新しい女性と暮らしているという羨ましいような話もあって、人間それぞれだと思った。
 寿命なんぞなるようにしかならぬ、と思いつつも、年齢を重ねるごとに、少しづつ老いのことを考えるようになるものだろう。 特にちょっとしたことで、例えばよく知っている人や場所の名前が出てこない、昨日は何時に起きたか、そんな日常茶飯のことが、さっきまでわかっていたのに、と考えれば考える程脳みその奥の方へ引っ込んでしまうような、そんなことが度重なると、これはそろそろ来たかなと、不安が首をもたげる。歩幅が狭くなるのか、動きが遅くなるのか、数人で一緒に歩いていると、いつの間にか何歩かづつ後れてしまう。誰にもあることなのだろうし、肉体の部分部分の衰えが出てくるのは当たり前で、気にしない方がいいと思うのだが、それより精神的に落ちこむのが一番よくないと自戒している。
 まだまだ若僧が何を言っとるか、と言われそうだが、段々人生の残りが少なくなってきたかなという、内心の焦りがないとは言えない。
 我ながら、未熟なり、と思うばかりである。

(S・Y)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成15年11月号掲載
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