坂道

2002年8月31日  三方からの急な坂道に囲まれた高級住宅地の中に、たった一つ、四階建ての小じんまりしたオフィスビルがある。そこに鎌倉ケーブルテレビを経営しているわが社が入っている。環境は頗るいい。坂道は、東と南と北にあって、どれも自転車では、電動ででもない限り、漕いでは上れない。西側には、小さな山の尾根部分が二、三○メートルの高さで残っていて、それがこの住宅地を街の喧噪から遠ざけている。その尾根の向こう側は、三年前まで松竹の撮影所があった所で、いまは鎌倉女子大学の新校舎が、来年四月の開校に向けて、急ピッチで建設中だ。北側の坂道は、駅や東京方面からのアプローチで、中では一番なだらかだが、距離は長い。東側は所謂鎌倉街道からの入り口で、勾配は最もきつい。南側は歩道のみの狭い道で、民家の生け垣に沿って曲りくねっており、古くからあった生活道路なのであろう。何れにしても、最寄の大船駅からは約十五、六分で、雨さえ降らなければ、徒歩通勤者にとって健康的な距離である。環境はいい、と書いたが、わが社の社員たちの悩みは、昼食の場所である。北の坂下にラーメン屋が一軒、これが一番近いが毎日では飽きる。南側の坂から駅の方向には、七、八分歩けばいくらもあるが、又あの坂を上って戻るのかと思うと、出足が鈍る。止むを得ず、仲間数人集って、車で下山することになる。従って女子社員や世帯もちには、弁当持参がふえている。ここへ社が移ってから、はや二年が過ぎた。
 八月の旧盆が過ぎると、日に日に日没が早くなる。それと同時に、日中の暑さと引き換えに、夕暮れになると、何となくひんやりした空気が漂い出す。六時の退社で表に出ると、ひぐらしの声が、どこからか聞えてくる。暦の上ではもう立秋を過ぎているんだと、無粋な人間でも、ちょっぴり季節感に浸る。南側の坂の下り口で西の方へ眼をやると、暮れなずむ空の中に、江の島の燈台の灯が、不思議な程の近さで、眼に入る。鎌倉の街に、障害になるような高い建物がないことが、実感としてわかる。坂を下りて行くと、夕方の買物をいっぱい積んで自転車を押し乍ら昇ってくる主婦たちに何人も出会う。陽が長くて、まだその時間が明るい間はさして感じなかったのに、宵闇が漂い出すと、急に生活の臭いを感じるのは何故だろう。家の中の灯りが、この狭い坂道に洩れて、主婦たちが家の中で夕餉(ゆうげ)の仕度をし乍ら、ご主人の帰りを待っている、そんな情景が頭に浮ぶからかも知れない。
 家路を急ぐ人たちと、道を譲り合うようにすれ違いながら、いま退社したばかりと言うのに、もう自分たちの家の近くに帰りついたような錯覚に陥る珍しい通勤道路だ。

(S・Y)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成14年9月号掲載
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