桑が谷療養所跡
(くわがやつりょうようしょあと)

 

昭和三十七年(1962)参月
長谷上町文化会


碑文

今を溯(さかのぼ)る七百年の昔,永仁年間鎌倉幕府執権北条時宗公が, 極楽寺僧良観忍性(にんじょう)上人に命じ,貧民救済の目的を以て療養所を設けたるのはこの桑が谷戸なりと云う. 又文永年間大旱魃(かんばつ)による飢餓の際,施粥(せしゅく)の炊き出しをなしたるもこの地なりと伝えらる,爾来(以後),年去り人逝いて幾度変転今は当時を語る跡形もなし.只この里に立ちて静かに偉人の善業を回顧すれば,松韻風と共に来たり我等に訓(教)うるものあらん. 茲(ここ)に桑が谷の歴史を伝え往時を偲ぶよすがとせんとす. 極楽寺縁起に曰く,「或ハ凶年ナル則集飢人ヲ深沢谷而施粥救餓(凶年には飢えた人を深沢谷に集めて粥を施し餓を救う)」と,また曰く「爰ニ元帥平時宗朝臣,請シテ上人一朝設斎筵,問訊答話之因ミ、 及チ上人談千元帥公曰,治療病人者,八福田之随一ニシテ而仏菩薩之最行也,公聞之丞感歎焉,故ニ新ニ構テ療病所於桑谷,以集テ蓋国之病者,而施ス治療ニ(北條時宗,上人を招き問答せし時,上人曰く病人の治療せし事最善の行為也と,時宗之を聞き感歎し, 新に桑谷に療養所を設け, 全国より病者を集め,治療を施せり)」と.以てこれが証とすることを得べし.昭和三十七年(1962)七月三日 長谷上町文化会嘗(かっ)てこの所に居られた鎌倉彫の名家後藤弘慶氏の遺族から 町内へ記念品寄贈の申出があったので  之を建ててその厚志に沿うことにした

説明

今から約740年前の昔の1260年頃、鎌倉幕府の北条時宗(ときむね)が,極楽寺の僧の忍性上人(にんじょうしょうにん)に、貧民を救済する療養所を設けさせました。その場所がこの桑が谷(くわがやつ)といわれています。 日照りが続き食べ物が無い時に、 おかゆの炊き出しをしたり、病気の人を預かって治療をしたりしました。現在は当時の物はなにも残っていませんが、ここに立って静かに偉人の行った善業をしのびたいものです。
位置
長谷3-7-18付近,長谷パーキング東南角で,長谷の鎌倉能舞台へ向かうT字路の南に建つ


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