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帰源院の歴史

帰源院は円覚寺の塔頭で、同寺第三十八世である傑翁是英和尚(天授四年〈1378、北朝年号では永和四年〉三月十八日示寂)の塔頭である。
(円覚寺の右の入り口を登ると、間もなく最初の石段を高く登り、更に左折した上にある)

創建後、一時衰退していたが、小田原北条の三代目 に当たる北条氏康が中興の開基となって再興した。中興の開祖は円覚寺第百五十三世の奇文禅才和尚である。
禅才は初め武蔵比企郡三保谷の養竹院に住したが、氏康が、禅才を非常に尊信していたので、これを鎌倉郷須崎の大慶寺に迎え、後、天文十八年(1549年) 二月に帰源院の住寺とした。禅才が円覚寺の法統を嗣いだのは、それから九年後の永禄元年(1558年)六月である。
禅才、氏康によって再興された頃の帰源院(当時は帰源庵と称していた)は、同じ塔頭の仏日庵と共に、円覚寺の中心勢力となっていたようである。 庵領も天文十八年には四十七貫文であった。一貫を五石と換算しても、相当なものであったといえよう。

徳川期に入ってからは、こんな話が伝わっている。
元和年間、二代将軍秀忠が大阪の陣に赴くとき、鶴ヶ岡八幡へ祈願のため、鎌倉へ寄って行なったが、その時、秀忠は愛妾を連れていた。ところが 愛妾に妊娠の徴候があったので、これを帰源院に預けて、自身だけで八幡宮へ参り、大般若経を奉って、大阪へ発って行った。戦勝の後、帰源院へ世話に なった礼として、「好雪軒」という書院を建てて寄進したほか、年々五十石を与えたと云う。

今の帰源院の庭の前を、南北に下りる細い道が残っているが 、これは昔、年貢米や納金などをつけた馬が通るための道のなごりだとのことである。
大正大震災前の帰源院は、東の山際に土蔵が二棟あり、その手前 、現在の本堂のところには、二階建ての藁葺きの庫裡があってだけで、今の離れ(茶室のある)の位置にあた本堂は、震災前にすでになくなっていた。 漱石がいたのは、この庫裡である。小説『門』に出て来る、軒に届く程の大サボテンは、早く姿を消している。今日の帰源院は五月初頃になると、 百株に近い牡丹が豪華な花を開いて見事である。

帰源院には明治二十六年、二十二歳の島崎藤村も滞在していたことがあるが、坐禅の点は好く分らない。 その時の事が後年(明治四十一年)その小説『春』の中に描いてある。


鎌倉漱石の会小冊子「夏目漱石と帰源院」より転載

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