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龍宝寺訪問記

2004年10月28日

鎌倉では、寺院数が少ない「曹洞宗」の
代表的なお寺「陽谷山・龍宝寺」を紹介します。

東海道線・横須賀線の大船駅西口を柏尾川を
右手に神奈川県立「大船フラワーセンター」へ。
大きな橋の交差点を右に折れて300mぐらい
先のトンネルを抜けると右に山門があります。
大船駅から徒歩15分位です。

バスは、大船駅西口より「関谷インター行」又は「藤沢駅北口行」で
バス停「植木谷戸」下車徒歩3分。

所在地:鎌倉市植木128


今年も晩秋となりましたが、夏は暑さが続き、そして秋には大型台風が次々と上陸し、豪雨と強風を伴って大きな被害をもたらしました。
さらには、新潟県中越地方で震度7の大きな地震が発生し、異常な自然災害多発の年でした。

被災された大勢の方々が不自由な避難生活を送られているニュースが、テレビや新聞などで毎日放送されてます。 復旧が進み、豪雪地方の方々には暖かい冬を過ごせますようにと祈るばかりです。
今年のお寺さん紹介の締めとして、平成16年10月28日の午後、「龍宝寺」にお伺いしました。

山門 参道
山門石畳の続く参道

徒歩でトンネルを抜けると、道幅は広いが静かな風景の広がったところに山門があります。
山門を入った左には「玉縄幼稚園」、右には「玉縄民族資料館」があり、参道は東京都の都電敷石の払い下げを受けて敷いた石畳です。敷石は 本堂までの長い距離に敷かれて居ます。

お忙しいご住職に、お時間を頂きお話を伺い本堂や境内を案内して頂きました。

お寺の開基は玉縄城主初代の北條綱成(ほうじょうつなしげ)です。綱成は文亀3年(1503年)に玉縄の東北、山居 (現在の玉縄4・5丁目と栄光学園の地)に創建し、寺領を寄付して「香花院」としました。

位牌
玉縄城主北條3代の位牌
綱成の戒名が「瑞光院殿実州宗心大居士」だったので、お寺は「瑞光院」と呼ばれました。
天正3年(1575年)玉縄城主3代目の北條氏勝は、父北條氏繁(玉縄城主2代目)を祀るため、瑞光院を現在地に移し、 氏繁の法名「龍寶院殿大應榮公大居士」に因んで「龍寶寺」と改名しました。
3代目の北條氏勝の戒名は 「上嶽寺殿角翁良牛大居士」で、開山堂にはこれらのご位牌が祭られています。

位牌 又、源実朝を大檀那と号し位牌があります。
龍宝寺の土地は七騎谷と呼ばれています。実朝の位牌・大檀那・七騎谷のことから 実朝の首を持って、秦野へ向かった別当公暁はここらあたりで難を避け追っ手を欺いた所であってのではないか?
実朝の法名は「大慈寺殿正二位丞相公神儀」です。
実朝の位牌
碑 江戸時代の儒学者、新井白石は朝鮮より幕府の慶賀に来日した朝鮮使節を迎えるため藤沢宿に来た際龍宝寺に泊まり、 藤沢から正式の行列を整えて、江戸に赴くようにしたといわれています。
また、植木村より白石の知行の内200石が納められています。 その因縁によって、享保10年(1725年)室鳩巣撰文の「朝散大夫新井源公銘碑」を刻んだ石碑が残されていますが 刻文は消えて読めません。
新井白石の石碑


羅漢 羅漢 羅漢 羅漢
羅漢 羅漢 羅漢 羅漢
本堂の欄間に並べられた五百羅漢木像

先代住職が、檀家から「檀家が納めた院号料を寺ではどうしているのか」と言う質問を受け、これからは五百羅漢 一体を寺に寄付してくれる方に(院号を)出すようにしたらどうかと考え、色々相談したところ鎌倉市長谷在住の彫刻家 「石原照治氏」から自分が彫刻しても良いと申し出があり、五百羅漢木像(桂材で36cm)を制作することになり、 石原さん親子で23年間をかけ500体が完成しました。
木像を寄付された方には木像に名を記し供養をして本堂欄間に祀られ て居ます。

昭和26年4月26日漏電により、山門を除く本堂・庫裡・物置など3棟200余坪の建物が全焼し、色々ないきさつを経て 昭和34年10月25日に再興し落慶式を挙げました。

境内に「重要文化財旧石井家住宅」があります。石井家も北條の地侍であったといわれ、小田原城主北条氏の 出城玉縄城跡に近い、関谷部落にあったものが移築保存され重要文化財に指定されました。

また、「玉縄民族資料館」もあり、檀家や村民から寄贈された民俗資料が展示され一般の方々も拝見できます。

龍宝寺には花木が多く、特に「しゃくやく」は種類・株数多く時期には見ごたえのある景色になるようです。


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