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報国寺の歴史と寺宝

(寺史と佛乗禅師の御足跡より抜粋)

・・・ 寺史 ・・・


当寺は、鎌倉市浄明寺宅間ヶ谷に在り、山号を功臣山(こうしんざん)といい、臨済宗建長寺派に属する。開山は天岸慧広(てんがんえこう)で佛乗禅師と謚(おくりな)されている。
開基は足利家時とされ、建武元年(1334年)の創建である。足利家時は尊氏の祖父に当たり、報国寺殿と呼ばれていた。源義家の遺訓が自己の代におこなわれざるを歎じ、子孫三代の内に必ず天下を取る者の出でんことを八幡に祈り自刃したことは史上有名である。

一方、開基は上杉重兼であるという説もある。天岸慧広は以前より足利家時の帰依を受けており、すでに家時の開いた一寺が在ったものを上杉重兼がさらに拡張再建したものかとも思われる。

「相模国風土記稿」によれば当寺の境域は幕末頃は広大なものであったらしく

「東西凡そ四・五町、南北十七・八町許りにして
坤方の絹張山も境内に属せり」


とあり、堂塔伽藍も整備され、その偉容を誇っていたようである。
もっとも寛永十年(1633年)、沢庵禅師が当寺を訪れた頃は「鎌倉遊覧記」にあるように、「爰(ここ)浄妙寺を出でてむかうの山に報国寺と云ふあり、総門に漸入佳境といふ四字を題す。是より踏み入れば岩のめぐりたる影に、佛殿方丈あり、さばかりのあとなり」とその当時の感慨を述べている。

当寺には、開基足利家時の他に足利義久の墓がある。
義久は鎌倉公方持氏の嫡男であり、永享十一年(1439年)京都の幕府勢との戦いに破れ、持氏は永安寺(ようあんじ)で、義久は当寺において自尽している。

「関東兵乱記」によると

「永享十一年二月持氏御自害、若君義久十歳にならせ給ひけるを 奉討べき由聞えければ、報国寺に御座せしが人々馳せ参りて 此由申しければ仏前に焼香なされ念仏十返唱えさせ給ひ、 御守刀引抜き左の脇に突立て引廻しうつっぷきに伏し給う」

とあり、鎌倉公方として四代九十年にわたり、鎌倉を中心として勢威を揮った関東の足利氏終焉の地でもある。



・・・ 寺宝 ・・・

当寺には、宅間法眼作の仏像多数あり、特に迦葉尊者像は傑作として有名であったが、明治二十三年仏殿炎上の際消失して今はない。

現在寺宝としては、国の重要文化財に指定されているものとして、

佛乗禅師像(絹本着色)建武二年の自賛あり一幅
東帰集(紙本墨書)天岸慧広自筆一巻一冊
佛乗禅師度牒(紙本墨書)弘安九年十一月八日一通
佛乗禅師戒牒(紙本墨書)弘安九年十一月八日四幅
堆朱印櫃入木印佛乗禅師所用(天岸、慧広)二顆

があり、鎌倉国宝館に保管されている。
その他に

釈迦如来坐像、本尊(木像)鎌倉市重要文化財一躯
聖観世音菩薩像(木像)一躯
佛乗禅師像(木像)鎌倉市重要文化財一躯

等々、多数の頂相、墨跡、絵画、古文書、古書籍などがあるが、全部分類、整理して保管、管理している。

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