当寺は源頼朝公の御家人、千葉常胤公(恒武平氏)の子孫、 千葉大隅守平胤貞公(後、出家される)の旧地である。
南朝元中二年・北朝至徳二年(1385年)、七堂伽藍を建立して妙親院日英上人を迎えて開山し、叡昌山と号した。 日英上人は、千葉氏ゆかりの埴谷氏の出身である日親上人の叔父にあたる。 第二祖が久遠成院日親上人である。 当寺は十九世、二十世の両代ごろ(元和・寛永)幕府の忌避にふれて廃寺となるところを中山法華経寺末寺分と申し立てて存続を許された。開山・日英上人は武蔵・上総・下総・伊豆新島・京都等々に及んで活躍され、七ヶ所にわたる講演職をつとめて居られた。 第二祖、日親上人は応永三十四年(1427年)の冬、二十一才の時、中山にて京都弘通を発願され、当寺にこられ「大法弘通に耐え得るや否や自らの忍力を試さん」と堂前の池で寒百日間、水行され、又、日課として自我偈巻、お題目千遍の修行を積まれた。 京へ上がり、さらに立正冶国論の一書を献じて、足利義教将軍の政道を諌めようとしたので捕らえられ、弾圧を受け、水、火、湯鑵(熱湯ぜめ)の拷問にあい、舌端を切られ、ついには焼き鍋をかむせられる極刑を受けたが、よく耐え忍んで法華経弘通につとめ、長享二年(1488年)九月十七日、世寿八十二歳で京都本法寺にて遷化された。 なお上人は導師職として九州地方にも下向、京都、鎌倉を幾度か往復し後年なべかむり日親の名を残した。
(妙隆寺縁起資料より) |