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等覚寺訪問記

2002年11月16日

今回のお寺さんは、”高野山真言宗・等覚寺“
11月の中旬真冬並みの冷え込む寒い日だった
湘南モノレール深沢駅から徒歩5分ぐらい
(駅ホームから本堂屋根が見える)
コンビニ脇の細い道を入り魚屋さんを正面に見て左折
30M位を左折少し歩くと右に茅葺薬医門の山門がある



山門を入ると、正面に本堂、右に"相模国準四国八十八ヶ所第二十一番札所”のお大師様(石碑には「四国八十八ヶ所之内第弐十壱番所阿州大龍寺之写し」とある)があり、六地蔵も安置されている。
左手には庫裏、本堂右奥には新田義貞鎌倉攻めで亡くなった人たちの無縁塔がある。
お忙しいご住職に、お時間をさいて頂き庫裏でお話を伺った。

等覚寺山門 お大師様
等覚寺山門お大師様

等覚寺の山号を「休場山」(きゅうじょうさん)と読んでいるが、昔はこのあたりを”やすんば”といって今でも土地の古いお宅の屋号に ”やすんば”という所もある。

本四国の遍路が困難だった時代、弘法大師への信仰から寒川、茅ヶ崎、藤沢、鎌倉あたりに四国八十八ヶ所札所の寺院名・土地名や、何らか似ている場所を選び四国八十八ヶ所の写しの番号とし、弘法大師を安置した。
春秋のお彼岸前後にこの地方の方々50〜60人が集まり、今回は寒川、茅ヶ崎方面、次は藤沢、鎌倉と各寺院の大師堂に安置された弘法大師石像をお参りして歩いた。
今の、JR大船工場の正門あたりに”湯小屋”(温泉みたいな所)があって、そこで昼食をしたりご詠歌を歌って楽しく過ごしたようだ。
その頃の春秋の楽しみなレクレーションでもあったとか。

弘法大師(お大師様)は文政三年(1820年)に建立された。

六地蔵
お大師様脇の六地蔵は七地蔵有るように見えるが、背の高い地蔵は、お檀家のお宅にあったものが移された(お寺に嫁入りした)ものだそうだ。

六地蔵は(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天上道)の六道を云い地藏さんの持っているもので判るとか。
また、六地蔵の内には安永時代のものが有るそうだ。
無縁仏の供養塔境内右奥の数ある五輪塔は、新田義貞鎌倉攻めの際、洲崎古戦場(鎌倉市町屋・寺分・山崎)跡から出土した戦死者の供養塔。
発掘当初は近隣の「東光寺」に祀られていたが当寺に移し供養を行っている。

洲崎での戦いは、北条軍の大将”赤橋守時”が討ち死にし、新田の軍勢は山ノ内に入ったと云われている。



等覚寺の境内には、市立深沢小学校の前身である寺小屋(訓蒙学舎)、後の梶原学校があった。梶原の"御霊神社"あたりから、小学校裏のあたりは今でもお寺の領地で、昔はそのあたりにお寺があったとも云われている。学校裏にある”やぐら”には梶原一族の供養塔もある。(頼朝の死後鎌倉を追われ、京都に逃れる途中駿河の清見関で地元の武士に襲われ一族が死んだので、現在も清見関近くの山に一族の墓といわれる石塔があるそうだ)。

又、本堂内に安置されている「出世子育て地蔵」(写真集参照)は昔からご利益があることで良く知られている。最近はインターネットのホームページや、妊婦向けの雑誌などでも紹介され、参詣すれば子が授かると、北海道や九州からも子供のほしい方々が大勢参詣に来られる。住職の奥様が参詣に訪れた方々の願いをお聞きになり、相談相手となって励まされ感謝されているとか。今年も、数組の方々が授かった子供を抱いてお礼に来られ、ご夫婦と共に良かったねと喜び合うそうだ。

等覚寺周辺地図(縮尺:1/25000)

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