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鎌倉の散歩道−36
鎌倉文学散歩  (7)

鎌倉から北鎌倉

このシリーズは、鎌倉にゆかりのある文人(文学者や画家たち)をしのびながら鎌倉を散策するという企画です。



● 出発は小町通り

鎌倉駅から小町通りを行き、八幡宮手前を左に折れたところに、鏑木清方記念美術館が あります。
鏑木清方は終戦後の晩年を鎌倉に住んだとのこと。ここは画伯の旧宅跡です。
門前から中をのぞいただけで失礼しました。

(小町通り)
(鏑木清方記念美術館)
小町通り
鏑木清方記念美術館


● 丹下左膳の林不忘

八幡宮を右に見ながら進んだ左手の山を背にした辺りに、『丹下左膳』で 圧倒的な人気を博した林不忘が住んでいました。

(林不忘の旧宅はこのあたり?)
(史跡巨福呂坂標識)
不忘はこの他、2つの筆名で作品を多数発表していますが、大正15年から昭和10年まで材木座、笹目に住んでいたそうです。
この付近には「史跡巨福呂坂」の標識があり、旧巨福呂坂はここから北鎌倉方面に通じていたようです。
林不忘の旧宅はこのあたり?
史跡巨福呂坂


● 御谷(おやつ)のあたり

その先、県道と別れ、右側の路地に入ります。
路地を直進した左手に、安西篤子が昭和41年から平成14年まで 居住していました。

『張少子の話』で直木賞、『黒鳥』で女流文学賞を受賞して ます。H16年には神奈川県教育委員長にも就任しています。

その奥には、評論家の小林秀雄が長谷、由比ガ浜、扇ガ谷と移り住んだ後、 居住した所があります。
日本における近代批評の確立者といわれるそうです。 東慶寺に眠っています。

(御谷(おやつ)のあたり1)
(御谷(おやつ)のあたり2)
御谷(おやつ)のあたり1
御谷(おやつ)のあたり2

その先右手の草むらが生い茂っているところは、鶴岡八幡宮に仕える供僧たち が住んだ、二十五坊跡で、御谷(おやつ)とも呼ばれます。
戦後、ここで大規模な宅造計画が進もうとした時、貴重な遺跡を守ろうとした大仏次郎らの運動によって保存されることになりました。
「古都保存法発祥の地」の標識 が建っていますが、この保存運動をきっかけとして「古都保存法」が制定された からです。

県道に戻り、小袋坂洞門をくぐり建長寺前に出ます。


● 建長寺とその界隈

鎌倉五山筆頭の建長寺の前あたりには、『原泉』『長流』などの句集 がある俳人の荻原井泉水が晩年まで住んでいました。

(小袋坂洞門)
(円応寺山門)
(建長寺総門)
小袋坂洞門
円応寺山門
建長寺総門


建長寺に入りました。
ここの塔頭「正統院」に滞在中、急逝した井上剣花坊の川柳碑があります。現代川柳の基礎を築いた一人です。
日露戦争後の処理に 当たった、首相の桂、外相の小村、総参謀長の児玉を揶揄した「太郎寿太郎 源太郎大馬鹿三太郎」は、世の中にウケた、と田沼聖子が『道頓堀の雨に別れて 以来なり』に書いています。

塔頭「宝珠院」には、妻子と別居、借金、飲酒、放浪という無頼の生活を送った 葛西善蔵が住んでいました。
宝珠院へは石段を登りますが参拝お断りとのことでした。

折しも、国の重要文化財の法塔(はっとう)が特別公開中で、平成15年に完成した小泉淳作画伯の雲龍図を拝見しました。

(宝珠院への石段)
(法塔(はっとう)特別公開中)
(境内の酔芙蓉)
宝珠院への石段
法塔(はっとう)特別公開中
酔芙蓉


● 明月谷

県道を進んで、踏切の手前を右に行き、明月川沿いに進んだ明月谷には、多くの 文人が住んだり、現住しています。

先ず、日本共産党に入党し、宮本賢治と結婚した宮本百合子です。『伸子』 『播州平野』などの作品があります。

明月院の手前の左手には、仏文学者、評論家、小説家の澁澤龍彦が66年から没年 (87)まで住んでいました。
59年に出版したマルキ・ド・サド著『悪徳の栄え』の翻訳で筆禍にあってます。
『高丘親王航海記』などの著書もあります。

(明月谷)
(明月院)
明月谷
明月院


明月院の奥には、詩人、随筆家の尾崎喜八が66年から没年(74)までいました。 『花咲ける孤独』ほか17冊の詩集があり、明月院には詩篇「回顧」の碑がある そうです。

そして、現役の小説家、随筆家、精神科医である、なだいなだもここに居住して います。
『パパのおくりもの』の著があり、「北鎌倉の景観を後世に残す基金」 理事長も勤めています。


円覚寺にも、漱石はじめ文人ゆかりの場所がありますが、後の楽しみにして、 北鎌倉で解散としました。


制作:亜郁/ひろさん

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