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鎌倉の散歩道  ・・・・・・  32
鎌倉文学散歩  (3)
− 鎌倉駅から瑞泉寺へ −

 よく晴れて風もない18日、正月気分もすっかり抜けた5人が鎌倉駅に集まりました。今日は出来るだけ路地裏を歩いていこうと思い、コースを決めました。
 まず、警察署の横の教会奥を左折です。少し行くと、ビルの裏手にどこかから移築したらしい、小粋な木造の門があり、大きな看板は「あらめ家」と読めました。
若宮大路 あらめ家

 その先、左手に宇都宮稲荷大明神。宇津宮辻子幕府があった所とか。政子が亡くなった後、清泉小学校の近くにあった大蔵幕府からここに移されたとか。この辺り、駅から数分の距離ながら、かなり閑静な路地、住宅地です。
 塔婆や墓石が見えてきました。昨年本堂を修築した妙隆寺です。裏から入ると、新劇の団十郎と賞賛されるという丸山定夫の碑が建っています。

丸山定夫の碑 東勝寺橋

 山門を抜け、すぐ左折し、小町大路を渡り、こちょこちょと曲がり曲がって、滑川に架かる東勝寺橋に出ました。橋のたもとには、「青砥藤綱旧蹟」と書かれた石碑が建っています。鎌倉時代の武士の青砥が、川に落とした10文を探させるのに、50文の松明を買ったという伝説の場所はこの辺りだったとか。

腹切りやぐら 大仏茶廊

 橋を渡ると、少し急な坂に。この辺りは葛西ケ谷といいます。平坦な原っぱが、北条氏最期の場所となった東勝寺があったところです。東勝寺は三代執権北条泰時が建てた寺で、元弘3年、新田義貞の鎌倉攻めにより北条高時は東勝寺に入り、一族郎党800人余とともに自害した所です。その上に「高時腹切りやぐら」があります。
 『太平記』には、「たちまちに灰燼となって、須臾に転反の煙を残し、昨日まで遊戯せし親昵・朋友も多く戦場に死して盛者必衰の屍を残せり」と描かれています。阿鼻叫喚というも愚かな凄惨な世界だったのでしょう。
 戻って、また路地に入ると、「若宮大路幕府跡」の石碑が建ってます。先ほどの、宇都宮辻幕府が、ここに移ってきたようです。
 左に少し行くと、「大佛茶廊」の看板が掲げられた木戸があります。『鞍馬天狗』などでおなじみの大佛次郎の旧宅です。大仏を太郎とし、自らは次郎と謙遜し、「大佛次郎」というペンネームにしたとか。週末は、お茶を飲めると書いてありました。
荏柄天神 絵筆塚

 金沢街道に出て、宝戒寺を曲って大きく右へカーブする手前を入った突き当たり付近は、『コチャバンバ行き』などの作品で知られる、永井龍男が住んだ所かと推定されます。『蛍』に、「夕刻バスを下りて、私はこの小川で、蛍の交うのを見つけた」とあります。岐れ路を過ぎてすぐ、左に入る道のたもとに、「関取場跡」の碑と付近の小学校の生徒が書いた説明文が掲げられてありました。荏柄天神造営のため、通行料を取ったところと。
 荏柄天神への参道に面して、『眼中の人』などで知られる小島政次郎や、『天皇の帽子』などを書いた今日出海が住んでいたところです。それかと思われる瀟洒な家があります。天神さんに入り、左手には清水崑の「かっぱ筆塚」があり、その後ろの小高い所に絵筆の形をしたブロンズの「絵筆塚」が建ってます。塚の周囲には現代漫画家の思い思いのカッパの絵が刻まれているので、ひいきの漫画家を探すのも一興です。鎌倉一早く咲くという梅や、ロウバイ、侘助が咲いていました。合格祈願の家族らしき人もポツポツ。
 鎌倉宮への参道。この辺りでしょうか、鎌倉に遊んだ正岡子規が初の喀血をしたというのは(『鎌倉一見の記』)。そして、『日本百名山』で知られる深田久弥が住んでいたというのは。ヒカンサクラが咲いていた鎌倉宮を横から出てすぐ、直進すると、二階堂川。その先を左に回った辺り、鎌倉文士の代表格の久米正雄(『破船』)、『日本文学盛衰記』の高橋源一郎、『悲の器』の高橋和巳らが住んでいたようです。
 三叉路正面は、護良親王の墓への石段。左手には「理智光寺跡」の碑が建ってます。鎌倉宮テニスコートの先を左に行けば、左手に広い原となっている永福寺跡。背後の山の斜面が工事中でした。永福寺の壮麗な様子については、「海道記」の文章が、鎌倉文学館が発行した『鎌倉文学散歩 雪ノ下・浄明寺方面』に出ています。

瑞泉寺・男坂 瑞泉寺
 瑞泉寺へは、永井龍男の「秋」に従い、両側にシダが生い茂る男坂を上りました。ここには、多くの文人や評論家の石碑が建っています。吉野秀雄は、「死をいとい生をもおそれ人間のゆれ定まらぬこころしるのみ」。山崎方代は、「手の平に豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る」。久保田万太郎は、「いつぬれし待つの根方ぞはるしぐれ」。大宅壮一の「男の顔は履歴書である」など。境内には、冬桜が咲き、南天の実が鳥に取られることもなく、たわわに残っていました。

制作:太郎/亜郁  協力:高山/ひろさん/ぶらぶら
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