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鎌倉の散歩道  ・・・・・・  30
鎌倉文学散歩  (1)
極楽寺、長谷文学散歩

しばらくの間、鎌倉にゆかりのある文人の足跡をたどりたいと思います。「鎌倉文学散歩」です。
編集子が「文学散歩」なる言葉を知ったのは、20代です。野田宇太郎の文庫を見て少し読んでいます。今、調べてみると、この言葉を創り、最初に使ったのは、やはり野田宇太郎でした。今日、私たちは、鎌倉文学館が発行した、『鎌倉文学碑めぐり』を参考にして、極楽寺と長谷周辺を見て回ることにします。

極楽寺 阿仏尼旧蹟碑・戸川稲村句碑

極楽寺駅に集まったのは3人。稲村ガ崎方面に進んで、右折して線路沿いに少し行くと、踏切の向こうに石碑が見えました。左手が「阿仏尼旧蹟碑」です。「阿佛尼ハ藤原定家ノ子為家ノ室ニシテ、和歌ノ師範冷泉家ノ祖為相ノ母ナリ…」と書き出してあります。実子為相がその異母兄為氏に所領を横領されたので、執権時宗に訴えようとして鎌倉 に下ってここ月影ガ谷に住んだが、係争が長引き、決せぬうちにここで没した」と刻まれています。鎌倉下向の折に書いたのが『十六夜日記』でした。その右にあるのは、「戸川稲村句碑」で、「月影の谷若葉して道清志」と読めます。稲村は、高浜虚子に師事したり、久米正雄の文人句会に出たりしています。梶原に住んで、10年前に亡くなっています。

長谷寺本堂 高山樗牛記念碑

月影地蔵を拝して後、極楽寺切通しの先を左折して、御霊神社。横手から入って、長谷寺へ。境内には4基の碑があります。最初は、入口左手にある高山樗牛記念碑で、「高山樗牛ここに住む」と彫られています。この境内、あるいは隣接地に住んで、日蓮研究をし、遺跡を丹念に見て回ったとか。31歳の若さで亡くなっています。

石段を登りきった所にあるという虚子の句碑ですが、ありません。本堂の先、見晴台入口にある久米正雄胸像の右に移動してました。
「永き日のわれらが為めの観世音 虚子」です。

政治家大麻唯雄夫妻が、愛嬢の死を悼んで建てた観音像に寄せたものです。虚子については、後日の散歩で紹介します。

久米正雄は戦前、「鎌倉カ−ニバル」を開始したり、「鎌倉ペンクラブ」を結成したり、貸本屋「鎌倉文庫」を運営する等、多彩な活動をして市民にも親しまれた鎌倉文士の中心的存在でした。そして、経蔵の方角を見ると大きな石碑が見えます。市内一の大きさとか。政治家大野伴睦の句碑で、「観音の慈顔尊し春の雨 万木」です。東海道新幹線に岐阜羽島駅を強引に誘致したせいだけではなかったでしょうが、この句は、我々の中では不評でした。

長谷寺・鐘楼 観音像


久米正雄胸像 光則寺山門

次いで、光則寺境内に入って、本堂前の海棠に相対する所にある、宮沢賢治の、「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ…」の詩碑です。賢治は、鎌倉を訪れたことはありませんが、日蓮の熱心な信者であった所から、この寺の檀家の篤信家からの浄財を得て、住職が宗教碑として建てたと。土の牢に上がって行く途中に、三橋家の大きな墓があり、その墓前に杉聴雨の歌碑が建っています。「なき人のすかたはみえぬさみたれの 宿谷のおくになくほとときす 聴雨」明治・大正の功臣であった杉は、鎌倉に遊んだ時は、長谷の三橋旅館に泊まり、主人の三橋与八と親交があった。与八の死後、この弔歌を詠んで、建立したという。

今日の仕上げは鎌倉文学館です。
鎌倉文学館

途中、コンビニで昼食を購入した後、文学館の庭で、お昼としました。食後、元前田侯爵の別荘だったここを描写した、三島由紀夫の『豊穣の海1春の雪』の一節を朗読しました。「この日本の終南別業は、一万坪にあまる一つの谷をそっくり占めていた。…」その本ノ裏表紙の裏には、March 3  '69  第1回読了 と書いてあります。37年前からの愛読書です。
制作: 亜郁/太郎  協力: ひろさん

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