<孔子プロフィール>
出典:現代論語解釈
・ BC551年(9月28日)誕生〜479年(4月18日)没(73歳)
- 父 孔紇(こうこつ)、名は梁、字は紇。大力と武勇の士、先妻の施氏との間に9人の娘があった。孔子3歳のときに死亡。
- 母 顔 徴在、孔子17歳のときに死亡。祈祷や葬儀などを行う宗教的な小集団に属していた。父の死後、孔子を母方に引き取り、儒のための「礼」を学ばせた。
- 誕生と幼少期
- 父の結婚年齢が65歳、母は10歳代と、年が離れていたため、祈祷師の母は子が授かるよう「尼丘山」に祈ったといわれている。
- 生地は魯国の昌平郷・陬邑(すうゆう:今の山東省曲阜県の東南にあたる)。名を丘、字を尼、次男であったため仲尼と呼んだ。
- 幼少期は恵まれた生活ではなく、母の仕事を見ながら「礼・楽」の知識を身につけ、これで生きてゆこうと考えるようになった。
- 青年期
- 19歳で宋国のけん官氏の娘と結婚、20歳の頃「委吏」(倉庫の出納係官)続いて「司吏」(犠牲用家畜の飼育係官)となった。
- 古来よりの礼法を学ぶため、各地を訪れて知識人に会い体系づけを行い、この知識が魯国の朝廷にも聞こえ、孔子に教えを乞う門人も現れ、自分の進む道に自信がもてるようになった。
- 壮年期
- 51歳の時、魯国の中都(今の山東省紋上県の西)の宰(長官)、翌年「司空」(土木厚生を担当する長官)、更にその翌年に「大司冦」(だいしこう:警察裁判を管理する司法の最高責任者)に任命された。
- 隣国の斉国は、魯国が孔子を登用して国力が増大し、斉国の脅威となることを恐れて、魯国に多数の美女と官能的な音楽を贈った。魯国の家老達がこれに溺れたため、大司冦職の孔子は大反省を求める等の理由で魯国を去る決意をし、55歳の時門弟達と各国行脚の旅に出た。
- 晩年期
- 約14年間の各国行脚の後68歳で魯国に帰った。帰国後は政治顧問をやりながら門弟の教育に専念し特に人間形成に重点をおいて指導した。「詩、書、礼、楽」の整理に力を注ぎ、周王朝成立当時の制度や文化を理想に考えて、古書・伝記の類を集め、先代の帝王達の記録を整理して「書経」を編纂した。又「詩」を門人の教育に用い、これを整理して「詩経」を編纂した。
- 教授法は、文(文献により)・行(社会で実行できるように)・忠(真心をこめ)・信(真実を)を宗とした
- 孔子は自分を「意欲が沸き上がってくると食事も忘れて熱中し、楽しいときは心配事も忘れ、老いが間もなく近づくのも気づかない」と言っている。