最新号

リレー随筆 (No.75)

熊本、博多、壱岐、西条…への旅
ー青春18切符をフルに使ってー

入っているシニアの趣味の会の仲間が、熊本まで飛行機か新幹線を使えば、 交通費がこれこれ掛るが、青春18切符ならば、その10分の1以下で行ける。 その差額の幾らかを、熊本城復興資金の一助として、市に寄附したいと思う、 こういう旅に賛同者はないかと、例会で提案があり、7人が行くことになり ました。(同上切符は、11,850円で一人が丸5日使えますが、初日は大船→ 大磯までの410円の乗車券が必要です。さらに座席指定券も)

8月1日。私はいつも夕食が早いので、出宅まで5時間近く仮眠をとり23: 36′発の熱海行きに乗車し、小田原で7人が合流し、「ムーンライト長良」の 客となりました。この先、何本か乗り継いで、熊本に22:50′の到着です。 私は数年前、熊本や鹿児島にある水路橋(有名なのは、熊本県上益城郡山都町 にある通潤橋)を見に行く旅で、熊本の先の八代まで乗っています(23:30′ 着)。

1) 乗り継ぎ、乗り継ぎで熊本駅へ

満席と車掌のアナウンスがありました。照明はそのまま。2時前、静岡到着。 ホームにゴミ車を押してるおじさんがいました。こんな時間に! 3時前、浜松 で目が覚めました。ホームに少年らが下りてます。少女も。貨物列車が何台も 行きます。夜中に稼いでいるようです。30分以上停車していたようです。この 先、ドアは開けませんでしたが、2つの駅で長いこと停車。時間調整をしている ようでしたが、5:20′名古屋に到着し、6時前、大垣に到着。乗り替えに2分 しかなく、接続の電車は階段を登らなければいけません。岡山でやっと気付いた のですが、二人が大垣で乗り遅れるという大トラブルが発生しました。

2) 熊本にて

8時過ぎに駅前からの市電に乗りました。古い城下町らしく、呉服町、魚屋町、 米屋町等の標識が見えますが、大地震で被害に遭った建物は見えません。城前で 下車。左手に長く低い塀が見えます。大神宮の石垣が崩れ、建物が一部破壊され ています。奉庵坂を上って城内へ。右手の櫓や石垣が崩れています。 石垣の上 の巨木が倒れ、奥に天守閣が見えます。手前には加藤神社も。歩いている人が ポツポツと。成趣園に入りました。古今伝授の間がありました。

市役所に入って寄付金を渡し、感謝されました。駅ビルで昼食を採り、ここで 皆さんと別れました。今度は、上記の通潤橋に行った時、案内してもらったメル友 宅へお見舞いです。電車で少し行ったところにありました。家の中は未だ、地震で 倒れた家財などが少し散乱していました。年寄り夫婦で中々元気が出ないとか。

3時過ぎの電車に乗り、博多に向かいます。西南戦争で激戦地となった、田原坂 を過ぎ、豪華特急らしき黒ずくめの列車とすれ違いました。2時間の乗車で博多着。 従姉と夕食です。翌日行った壱岐に疎開したとき、お世話になった従姉です。 お寿司を御馳走になりました。昔話に時を忘れるほどでした。

3) 壱岐にて

壱岐は、私が5歳の時、二人の兄と母方の祖母の許に、半年ほど疎開をしています。
二人の息子(私には伯父)の家族も近くに住んでいたので、よく遊びに行きました。
昔は築港と言ってたフェリー乗場にバスで。ジェットホイルでした。席に着くと、目の前に「シートベルト着用を」と書いてあります。鯨などが多く目撃されている、 その場合、減速や急旋回を行うから、と。玄界灘に出ても、揺れはわずかでした。
丁度1時間で芦辺港に到着。タクシーでOさん宅に。従兄の奥さんが一人住まいで、子どもたちは関西方面で暮らしていると。ここでも昔話。暑さが引けた夕方、お墓 参りに出掛けました。立派な石塔のお墓には、祖母、伯父、従兄等が眠ってます。
祖母は私が大学に入った年に亡くなっていました。従兄の家の裏は、瀬戸浦で、イカ 釣り船が数隻、もやってます。夕食は近くの料理屋さんに。

翌朝、一人で見物に。数分の所に、空き家となったオババの家が残っていました。 裏の崖から夏に、赤いカニが列を作って這い出してきたこと、夕方、浜に行ったら、 ブリを1匹貰ったことなどが、昨日のことのように思い出されます。兄たちが通って いた小学校に石段を登って行きましたが、夏草が生い茂って、様変わりでした。

4) 西条で酒蔵見物

10時、小倉行きに乗車。1時間少しで戸畑を過ぎました。学生時代に行った工場 見学旅行の時、杜甫の歌をもじって、昔聞洞海湾、今上高塔山、若戸東南ニサケ、 乾坤日夜浮 なんて作りました。新山口で下車。食堂に山頭火御膳というのがあった ので注文。うな丼+ざる。防府市の出身でした。

南岩国駅前に広がる蓮田の広いこと。岩国の駅近くの奥の方まで続いていました。
宮島が意外と大きいと思いました、長々と横たわってます。今日の宿は広島で取ろう と思い下車。宿を探してウロウロ。赤ヘル姿の人がゾロゾロ行きます。赤ヘル街道だと後で知りました。翌日は、原爆の日とかで、ホテルが混んでいるのが分かり、 この先に、酒蔵の町、西条があるのを思い出し、電車に乗りました。しかしここで も、2軒が満室。こりゃヤバイぞと思ったら、親切な人に出会いました。ホテルまで車で 送ってくれ、OKを確認するまで待っていてくれたのでした。広島も含めて7軒目でした。

駅方面に行くと、酒蔵が何軒も見えます。「福美人」が開いていたので入りました。
勝手に見学してください、というスタンスでした。「しずく酒」大吟醸450円を頂き ました。賞状が張り出されていましたが、醸造蔵名宛になっていました。蔵毎に杜氏 がいるからのようでした。

5) 新大阪に泊って、帰途に

また、電車を乗り継いで福山へ行きました。駅近くの中華屋で昼食。紹興酒も飲んでしまいました。岡山から赤穂線に乗ろうかとも思いましたが、姫路方面行の電車も そう多くないのでヤメ。ひょうきんな文章で知られる内田百?の「阿房列車」は良く読みましたが、その名の由来の百間川が近くを流れています。今夜の宿は、大阪にしようと下車し、案内所で宿のパンフを貰う。駅の外に出たら、大勢の人。こりゃ 駄目だと、また乗って新大阪に。ここでもすんなり取れなかったですが、新幹線下のホテルがやっと取れましたが、足許を見られ九千円でした。無論、泊りだけ。

起きれば、今日が最後の日となりました。帰心矢の如しで、6時半前の電車に乗っ ていました。千里丘、高槻、膳所、安土など思い出の土地が続きます。

大船到着は16時6分でした。6日間、亭主達者で留守の日々、家内もさぞかし、 結構な夏休みだったでしょう。(ここまでA4版用紙24枚にメモってました)。