最新号
編集部員のリレー随筆(57)

来し方、行く末

作者:亜郁


 今年、齢74。まだまだ生きられると思いますが、私のこれまでをまとめる最後のチャンスかもと思い、記すことにしました。

  1. 来し方

    1. 小学校入学以前

       生まれは、東京の芝仲門前2-9。靴製甲職人の5男として生まれました。5人続いての男で、さぞかし、両親はがっかりしたろうと思います。それにもめげず、子作りに励み、2人の妹を授かっています。(末子は、命名が面倒くさくなったのでしょうか、八郎です)
       遊び場は、芝浦海岸へ行ったのは覚えています。増上寺や芝公園、芝神明神社にも行ってるはずです。鮮明な記憶は、床屋で頭を刈って貰っていたとき、足元に伊勢海老が置かれたことです。
       昭和19年の春、東京が空襲を受けると判断した両親は、私とすぐ上の2人の兄の3人を、母の実家がある長崎県壱岐の島に疎開させました。オババと呼んでいた祖母は、早くに亭主を失い、長男の家族とも離れ、一人で豆腐を製造していました。私が訪れた日、隣の家との間に、トンビの死骸がありました。両翼が1m近くもあったと思ってます。兄たちは学校に行ってましたので、一人であちこち出掛けて遊んでいました。浜で開いた孔に塩をまくと、細長いマテ貝が出てきたのです。大きな釜にヒジキを煮ている小さな工場を覗いたり、船の進水式で餅やミカンを取りっこしたり、浅い浜で泳ぐまねをしたり、夏になると、家の裏の崖から真っ赤なカニが列を作って出てきたのを見たり、お盆で、「少年船」と覚えていた、野菜や果物を乗せた精霊船を沖へ流すのを見つめていたり、裏山の落ちてる枯れ枝をオババが入札で1番札を取ったこととか‥。壱岐での思い出は、以前整理したら、30数点に及びました。
       両親と上の兄貴たちが群馬県の渋川の叔母の家の裏に落ち着き、父の新しい勤め先も決まったことで、その年の冬の初めに、父が迎えに来てくれました。帰る車中で、傷痍軍人に抱かれていました。長く停車していた山陽線三原駅の名は覚えています。大船から横須賀線に乗り換え、横須賀の海軍部隊にいた、母の兄の小川少尉を訪問したら、中尉に昇格していました。洋式の応接室でお茶を飲んだのも覚えています。渋川駅前に木で走るボンネットバスが煙を吐いていました。

    2. 渋川小学校時代

       入学式の日、校庭の周りと下にある公園で、桜が満開だったのも覚えています。生徒は多く10クラス位、それも1クラス60人超も。夏休みの宿題で、早起きして朝日の上がる位置を図に書き込んだり、カイコを飼って、桑を毎朝採りに行きました。吾妻川が利根川に合流する手前の細流で流れに乗ると、うまい具合に浅瀬があって、泳げなくても川遊びが出来ました。利根川の少し上流に、台風で埋まっていた堰が現れ、プールのようになった所でもバシャバシャやっていました。クラスに初恋の思いをしたMさんがいました。家の近くにある小さな平沢川で、近所のガキどもとよく遊びました。夏の夜は試胆会です。暗い細い道、大きな木。
       クラスに1足のフェルト製の草履が配給になったとき、皆が先生のところに駆けつけましたが、私は悠然と構えていたら、先生が真っ先に籤を引かせてくれ、それが当りだったこともありました。


    3. 大田区立道塚小学校時代

       小学4年の夏休みの終わりに、東京の外れの蒲田に帰京しました。父の仕事仲間から呼ばれたとか。翌日、小学校へ行き転入学。担任は、大学を出たての上野至先生。隣の組はおじいちゃん先生でしたが、1組には入れて良かったと思ってます。写生を描きに、多摩川の土手や多摩川大橋を渡って梅林に行ったりしました。東芝総研の近く?です。校庭に1a(10m四方)の四角を石灰で描いたのも印象深いです。5年の夏、近所の友達と多摩川に行き、向こう岸まで泳ぎました、数m手前で立とうとしたら、ズブズブでした。早くもヘドロがたまっていたようです。かえり、運搬船からどなられましたが、無事、帰岸。水泳開眼した、と自信を持ちました。演劇会では、「ああ、無情」の司祭役もやらせてもらいました。クラスの仲間がソロバン塾に通っていると知り、行かせてもらいました。中2まで通い、2級まで行きました。当時の文部大臣は天野貞祐でした。免状に書いてあります。修学旅行は日光で、夜行列車で行き、車内泊でした。野球は捕手でした。父が材料を仕入れに行った浅草で、キャッチャーミットを買ってきてくれたときは嬉しかったです。今でも、倉庫に入っています。


    4. 区立御園中、都立小山台高校時代

       部活は野球とバスケットでした。高校でも篭球をやりたかったですが、一部の中学卒ばかりを相手にするので辞めました。中2の時の理科の松木先生が黒板に、「燃焼とは、激しく酸素と化合して熱と光を出すこと」と書かれたのに感動し、その後の進路が決まりました。妙義山や富津に林間(海)学校に行きました。運動会の仮装行列では、「七福神」の毘沙門天でした。
       高校では「化学班」に入り、染料を少し学びました。当時のアルバムに、文化祭のときの写真があり、「建染染料」「媒染染料」、「オレンジUの合成」などと書かれています。中学の先生の紹介で、田園調布にあった津田栄先生(化学の参考書でお世話になった)の「化学教育研究所」で実験などもしています。品川高輪にある中学の別の先生宅で、「平家物語」の輪読もありました。そして、悲しい浪人生活。お御茶ノ水にある予備校でした。


    5. W大学(応用化学科)時代

       入学歓迎の隅田川でのボートレース、酒匂川上流での釣り会など、嬉しかったですが、春の早慶戦で安藤投手の力投を、何度も神宮に通い、新宿に出かけ飲みました。鬱積した気分が晴れたように思いました。小学時代の友人の母親から誘われ、4年間、「表千家」を習いました。各地のお茶会でも点てました。学生服が凛々しいとも言われました。若いお嬢さんが数人いましたが、晩生で、浮いた話はありません。4年になると、研究室に入ります。授業で気に入った化学工学のS先生の研究室に入りました。7人と一緒でした。修士や博士課程の先輩が数人いました。台湾から留学の女性も。卒論の実験中、プロパンガスボンベの安全弁が飛び、ガスが放出したので慌てて、ナイフスイッチを落としましたが、ガスの方向、切るまでの時間によっては、爆発が起こっていたかもしれません。先生からは何もお咎めなしでした。後年、卒業記念誌で、「5号館爆破未遂事件」のタイトルで、この時のことを書きました。


    6. ポリエチレ製造会社へ就職

       古河系の化学会社へ就職しました。川崎の夜光町にあり、日本石油化学に隣接した工場です。PEの製造用溶剤を安い灯油に切り替える精製の研究を行っていましたが、はかばかしい成果はなく、生産技術課に転出。潤滑油などに使われる粘稠なオリゴマー生産の技術をみました。ある時、圧縮機からアンモニアガスが漏れ、ホースで水をかけるという事故が発生しました。液体アンモニアが入る液圧縮が原因でした。工作課にポールをつくってもらい、昼休みにバスケットをしたりしてました。そんな頃、同じ古河系の塩ビを作る会社の常務が出向してこられ、一緒にプレーをしたこともありました。入社1年目の「日本化学会」は、山中温泉で行われましたが、これに参加させてもらい、お嬢さんと来られていた専務に、ホテルに表敬訪問しました。


    7. 合成ゴム製造会社へ転職

       専務が元の会社に戻られるとき、5人の仲間と一緒に移ったのはラッキーでした。その前に、家内と結婚していて、川崎の国鉄の操作場に近い借り上げ社宅に住みました。新婚旅行は八丈島。2度目の飛行でした。鎌倉の梶原にある社宅に移って、しばらくして長男が生まれました。その2年後に次男が。勤務先は、前の会社に近いところにある研究所でした。C5留分から作る新しい粘稠な液体の製造研究をしていた部署です。前の経験を活かせということでした。
      製法、条件も決まり、水島の工場でパイロットプラントが出来ました。今度は用途開発の仕事です。そんな折、正月の新聞広告に、「今年は家を建つ(辰年でした)」を見て、土地の物色を始めようとした矢先に、社宅の近くの小さな会社が造成した土地のチラシが入ってきました。
      大雨の翌日ということで、ぬかるんでいて印象悪くバツ。その後、半年、あちこちを見て回るうちに、当初の希望は高望みだと気づき、そういえば、最初に見たあの土地はどうなったかと思い出し、店に飛び込んだのが幸いでした。東南の角地を社長の家用として確保していたのを売却することに決めた直後のことでした。めでたくゲット。資金は、親兄弟からの借入金も入っていました。しかし、当時の金利はべらぼうに高く、生意気にもそれで返済していましたが、返済しても元金が減るのはわずかでした。そこで、家を建てることにして、住宅金融公庫と会社の融資を充てることで何とか、高利な親兄弟への返済を大幅に減らすことが出来ました。当時、プレハブ住宅の欠陥が大きな問題となっていましたので、「‥を良くする会」の話を聞きに行き、工場生産化率90%超のSハイムに決めました。品質が安定している、耐震性がいい、静謐だというのが決め手となりました。
       そこそこ用途が決まりだしたら、今度は米国から同じ粘稠液体の技術導入の担当を命じられ、2週間、出張で行きました。最初の1週間は向こうの研究所で、導入技術についてのレクチャーでした。五大湖のエリー湖に近いところで、夕食を湖畔のレストランで摂ったとき、♪ はるばる来たぜエリー湖‥ が口をつきました。翌週は、日本で製造しているオリゴマーの紹介で、数軒の会社に行きました。最後は、NYから飛行機で1時間の所にあるボルチモアの会社でした。現地の駐在員が若い販売員に、売れたらNYへ招待してやるなどと話しています。
      仕事はこれで終わりということでリラックスし、昼食のとき、持参した千社札をウエイトレスに渡しながら、「これを台所に貼ると、いい人に巡りあえる」と、いい加減なことを言ったら、トレーを落とし涙ぐんでしまいました。そういう人が現れたようでした。外に出たら、似顔絵描きがいたので、描いてもらいました。鼻歌を歌いながら数分でした。会社の人だけでなく、ホテルで夕食を一人で摂ったとき、食堂で娘さんと一緒にいた家族とも話をしたりして、そこそこ、英会話に自信を持てましたが、決定的だったのは、帰国後、しばらくして、駐在員からの部長への報告を見せられた時でした。「さて、K氏好調のペースでアメリカ生活をエンジョイしています。度胸があるので大声で英語をしゃべるため、結構通じており、かっこうをつけてうまい人よりもサマになっています。‥」。この駐在員から、米国では私をアイクと呼ぶことにすると言われたのが、HN 亜郁のいわれです。それと、現地での3日目ぐらいに、ジョンレノンの暗殺があり、週末のセントラルパークでの追悼式があったのにも遭遇しています。
       導入した技術の展開で随分、格闘しましたが、こと志と違って契約は破棄されてしまいました。


    8. 大阪の子会社の支店に出向し、営業を‥

       樹脂関係の研究室に移り、出向先での仕事がらみの勉強を約半年して、勇躍、単身赴任をしました。事務所は大阪駅に程近い所。寮は吹田にある独身寮。塩ビのコンパウンドの販売です。歴代担当者の努力もあって、支店の中ではトップの成績を引き継ぎ、少し伸ばしもしました。とはいえ、健康診断でγーGTPが200を超える値となりました。格別、大酒を飲んではいなかったので、ストレスからきたものだと思いました。3年の後、帰宅したときは、基準 を少し上回るところまで、一気に下がりましたから。
       ここでの大きな事件は、阪神淡路大震災に遭遇したことでした。あの時は3連休で家に戻り、 最後の日に遅く帰寮した翌朝でした。幸い、鉄筋コンクリートの寮は、大きな被害も無く、 私の部屋では冷蔵庫の上に置いてあった紙コップが落ちただけでした。会社も大丈夫で、被 災したユーザー以外、セールス活動が出来たと思います。休日に神戸の先まで行って惨状を 見ましたが、余りの酷さに長く居られませんでした。


    9. 早期退職後

       ある事情があり、定年を待たずに退職しました。同じような仲間からの情報で、藤沢にある職業訓練学校に入り、1年間、コンピューターデザインを若い人たちと一緒に勉強しまし た。クラス会報の発行を提案し、編集長になったり、「デザイン史」で知った、多彩なW・モ リスの没後百年展がロンドンのエリザベス・アルバート美術館で開かれると知って、夏休み に次男を誘って約2週間の個人旅行を楽しみました。美術館には2回行きました。モリスゆか りのマナーにも行きました。息子の運転で、2泊3日のコッツウオルズ村ドライブ。鉄道が敷 設されなかったので、古い町や建物が残っています。モリスが泊まったというスワンホテル に宿をとり、鱒料理も食べました。仕事を終えた救急車に先導してもらい、迷った道から開 放されたことも。
       学校で学んだことを活かせる会社もなく、戸塚にある塗料製造会社にフルタイムのバイト をしたり、株や先物商品に手を出して、大損をしたバカもやりました。その他、バイトを幾 つか。今も2、3やってます。体を動かすことと、暇つぶしを兼ねて。


    10. マラソンのこと

       今までの記念誌などで書いたことと重複しますが、簡単に触れます。私の後半の30数年間、 関わってきたことですので。40過ぎてからでしたか、職場の若い人が終業後、走り出したの に加わり、走り出したのが始まりでした。その後、近所にある商工クラブの人たちの走る会 に参加しました。FRCです。三浦マラソンでもらったホノルルマラソンのパンフを見て、翌冬 の大会の参加を会員に図って積み立てを始めたり、会報の発行を提案し編集長に就いたり、 ホノルルを走ったりしてます。新幹線や飛行機で大会に参加したのに飽き足らず、デスバレー (米加州)の半砂漠を走ったり、メルボルンやニュージーランドにマラニックの仲間と走り に行ったりしたのは記憶に新しいことです。
       さて、現在ですが、去年の6月以来、走っていません。近くの中央公園にある、「山崎・谷 戸の会」に入り、畑班で野菜作りに勤しみ始めたからで、FRCの例会と日時がバッテキングし たからです。中々、一人では走れないものですね。家でも作ってます。


    11. 旅、自分史「塞翁」のこと

       学生時代の2週間にわたる「東北旅行」以来、最近に到るまで大中小の旅行をしています。
      中学の担任から、旅行は行く前、最中、後と3つの楽しみがあると聞いて以来の旅好きとなりました。後の楽しみは、アルバム作りです。マラソン大会後も無論、作りました。メモを厭 わない、書くのが好き、が嵩じたからでしょう。
       1990年の正月、現自分史「塞翁」を発行し始めました。タイトルは、高校時代に「漢語句集」にあった、「人間万事塞翁ケ馬」から採りました。当初は月刊でしたが、61号以降はほぼ日刊にスピードアップしました。書くことが多くなったからです。日に数点、書くこともありました。書くのは、身の回りに起きたこと(旅行、大会参加も)、新聞記事と読んだ本・雑誌で記憶したいことです。すでに、8200号を超えました。1.6編/日のペースでした。



  2. 行く末

     家内から、「あなたは百歳まで生きられるわよ」などと言われます。幼い頃から風邪を引くことも滅多になく、30年近くたまった耳垢(真珠腫)切除で3日間、入院しただけです。頑健そのものと言ってよいでしょう。親からもらった健康体と私自身のそれなりの努力が、そうあらしめたと思います。定期健診での不安材料は、肝臓機能のデータくらい。かなりの量を飲んでいますが、これとても、基準値を下回るのと半々くらいなのです。まあ、酒を控え目にすれば問題は少ないだろうと思いますが、これが中々、なのです。
     しかし、昨今は、やる気が起きず、悩んでいます。「塞翁」も入力はするものの、アルバム化が進んでません。部屋も散らかし気味。家内から、家周りをしっかりみることと叱咤されてます。平塚さんの文にもありますように、「今日行く所」と「今日用」が少なくなってます。そんな訳で、本はよく読んでます。10月半ばで87冊。完読してないのも含めてですが、過去最高です。ただ、長編小説は敬遠してますが、山本一力の『菜種晴れ』(p460)といった軽い読み物がやっとでした。

     以前、ある人から、「ひとの2、3倍は生きているわよ」と言われたたことがあり、自身、そうかも、とも思いますが‥。

     ある会の人から誘われている、陶芸の会への入会、近くにあるスイミングプールでの泳ぎやマシンを使っての筋トレ、エクササイズの会などへの入会を考えているところです。



作者:亜郁  制作協力:ひろさん

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