「三橋旅館」について(4)

大正期の三橋旅館


三橋旅館絵ハガキ


三橋旅館絵ハガキ



 明治時代の三橋旅館の逗留者は、政財界の重鎮や各界の有名人らがその中心でした。前述の大橋乙羽(おおはしおとわ)『柳の都』のほか、小説家谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう・一八八六〜一九六五)が大正十三年(一九二四)『大阪朝日新聞』等に連載した小説の一節によりますと、「で、私たちは三橋にしようか、思ひ切つて海浜ホテルへ泊らうかなどゝ、そんな空想を描いてゐたに拘はらず、その家の前まで行つて見ると、先づ門構への厳めしいのに壓迫されて、長谷の通りを二度も三度も往つたり来たりした末に、とうとう土地では二流か三流の金波楼へ行くことになつたのです」(『谷崎潤一郎全集 第十巻』昭和四十二年 中央公論社)とあり、海浜ホテルと並ぶ高級旅館でありました。
 ところで、明治二十二年に横須賀線が開通して以来、利用者の増加に伴って本数が増え、スピードアップが図られました。そして、四十三年には江ノ島鎌倉観光電鉄の藤沢・鎌倉小町間が全線開通し、鎌倉の観光がより手軽となりました。二十九年には「又鎌倉別荘を有せざるの避暑客の農家若くハ素人家等を借りるもの多しといふ」(『毎日新聞』同年八月十六日)、「今年ハ昨年に比し数倍の来遊者なり(中略)汽車客数ハ降りるものよりは乗る方多し去十六日の日曜は殊に夥多しく午後七時頃迄に早や千二三百人に達せり」(『毎日新聞』同年八月廿一日)、また、四十二年には「鎌倉地方の気候が暖にして避寒に適するを以て数百の別荘所有者は年末年始を同地に避寒するを例とし(中略)又同町長谷三橋旅館は京浜間のあらゆる紳士豪商連避寒の定宿なるが本年は不景気の故にや来遊申込至つて少なかりしが昨今に至り初めて避寒の案内続々ありとの事なれば夏期以来寂しかりし鎌倉町も年末年始に掛けては矢張り賑ふべしといふ」(『横浜貿易新報』明治四十二年十二月二十六日)などとあって、好況不況による変動もあったと思えますが、それでも避寒、避暑客の増加が促進されました。 

 ところが大正時代に入ると、それまで繁栄した三橋旅館にも陰りが見えて来ました。
 ここで鎌倉の戸数、人口の推移を見ますと、明治九年では後の鎌倉町の範囲である極楽寺、坂ノ下、長谷、大町、小町、扇ヶ谷、乱橋材木座、雪ノ下、西御門、二階堂、浄明寺、十二所各村を合計した民家総戸数(寺社を除く)一、〇三八、人口は平民五、六一八、士族八一の総計五、六九九でした(『神奈川県皇国地誌残稿 上巻』)。この戸数人口は幕末以来の旧住民の総数でありましょう。そして、鎌倉町制施行後の明治三十年には戸数一、一三〇に人口七、二一〇でした。さらに大正二年の調査記録によりますと、明治三十六年から大正元年までの推移として、戸数人口のほか別荘の戸数人口、旅客宿泊数までも伺えます。三十六年では総戸数一、二一四、総人口八、三七六に対して別荘戸数二七〇、同人口二、一六五、旅客宿泊数「上」が一、二五〇、「下」が六、三八〇で、大正元年には総戸数一、六五〇、総人口一〇、九七四、別荘戸数四八〇、同人口三、三六〇と、九年間で人口、戸数とともに別荘戸数を二一〇、同人口を一、一九五と飛躍的に増加させています。これに対して旅客宿泊数は「上」一、二五〇、「下」六、六〇〇と九年間を通じて横這いです(『鎌倉議会史』)
 なお、人口の増加については、横須賀線の本数の増加等が京浜方面や横須賀軍港への通勤を可能にし、海軍軍人や別荘族などの定住化が促進されたことがその要因の一つとも言われています。
 また、三橋旅館の利用者として、前述のように南方熊楠、福沢諭吉、原敬、陸奥宗光、饗庭篁村、市川左団次らの名があります。しかし、彼等の宿泊の事跡は明治四十年代までで、その後の記録はありません。明治時代の三橋旅館の利用者は政財界の重鎮(じゅうちん)や各界の著名人と思えますが、多くは明治の末までにそれぞれ別荘を所有しています。このほか、大正元年の『現在の鎌倉』には、別荘が五八三戸、旅館が二三軒、夏場の貸家が四二二戸、貸間が一九六戸(全間数一、〇三三)という記録もあります。この史料は片瀬方面等も含んだ数値です。以上が要因となって宿泊者数が押えられ、大正時代以降、三橋旅館をはじめとする鎌倉の各旅館は集客に苦慮したのではないでしょうか。また、大正九年(一九二〇)松林堂刊の「最新実測鎌倉江之嶋詳細図」を見ると、三橋出張が「山口旅館」という名称になっています。明治四十五年刊の『現在の鎌倉』では、八幡宮前の三橋出張も名義人を本店と同様にしていますので、大正中期までは存続していたことが伺えます。
 そして、明治時代に鎌倉で最大規模を誇った長谷の三橋旅館は大正十二年の関東大震災によって、歴史からその姿を消したといわれます。

まとめ

 鎌倉の宿については『海道記』によりますと、貞応年間には鶴岡八幡宮近くにあったことが記されています。しかし、宿場としてかたちづくられたのは江戸時代中期で、大山参り、伊勢参り等庶民の動きが活発化してからといいます。
 ところで鎌倉の宿は紀行文などの記録からしますと、古くは八幡宮前に数例見えています。雪ノ下の「大石平左が宅」(宝永六年《一七〇九》「鎌倉三五記」)、「御本陣大石平左衛門方」(寛政三年《一七九一》「甲子夜話」)、「雪の下の社人加茂左京なるものゝ家」(寛政九年《一七九七》「相中紀行」)、「雪の下松尾滝右衛門方」(享和元年《一八〇一》「三浦紀行」)などがありました。その後は「坂東第四番目の札所」としての長谷寺や、大仏へ参詣する人々が増えたと思え、文政四年(一八二一)の雪ノ下の大火の影響もあって、寛政年間には長谷村も宿場として栄えたようです。しかし、江戸時代の長谷村で記録にのこった宿屋としては、現在のところ「三橋」以外に知ることは出来ません。
 文化年間に旅籠屋として記録に見えた三橋旅館は、幕末には人馬継立等、幕府の要求に対処するための近在名主連の寄合所として、当地における中心的な地位にありました。さらに明治時代の初期には、開化の波に乗って三橋与八の代に規模を拡大。早くも明治二十年代には長谷の本店のほか八幡宮前の出張旅館、駅前待合所、また、数棟の「別荘」と称する離れが造られて、華族や政財界の重鎮、各界の名士らが利用する高級旅館として繁盛しました。わかっているだけでも南方熊楠、福沢諭吉、前田利嗣、巖谷小波、江見水陰、原敬、伊藤博文、大橋乙羽、饗庭篁村、島津忠重、市川左団次、杉孫七郎が宿泊しています。
 ところが前述のように、大正年間には貸家、旅館の増加や、鎌倉までの所要時間の短縮などにより鎌倉全体として宿泊客が伸び悩みました。加えて、「京浜間のあらゆる紳士豪商連の定宿」でありました三橋旅館は、名士の別荘の増加や定住等によって利用者を減らしたと思われます。そして、大正時代中期には規模を縮小、関東大震災によって終焉を迎えたといいます。
 このように三橋旅館は、明治時代の鎌倉を代表する高級旅館でした。しかし、関連史料のみでまとめたため、残念ながら三橋旅館の変遷や宿泊者等については充分お伝えすることが出来ませんでした。今後の研究に期待したいと思います。


三橋旅館絵ハガキ

本編は拙稿「所謂『三橋旅館』について」(雑誌『鎌倉』78号)を書き改めたものです。内容の詳細や典拠資料につきましては、そちらをご参照下さい。

浪川幹夫

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